とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

地球にちりばめられて

 多和田葉子にしては非常にわかりやすい。明確な文章。近未来。日本は海の下に消えてしまった。その今はない国を出て、スカンジナビア諸国で暮らすHirukoはパンスカという自分でつくった言葉を話す。彼女に興味を持って近付いてきた言語学者のクヌートはデンマーク人。グリーンランドで生まれ育ったナヌーク/テンゾはコペンハーゲンに出て学んでいたが、消えてなくなった国の出身者と間違われるうちに、日本語を習得し、鮨屋で働き、旅に出て、ドイツでノラと会う。女装男性のインド人アカッシュは空港のバス停で知り合ったクヌートに惹かれ、彼の後を追いかける。ノラが企画した出汁のフェスティバルに参加するため、ドイツに向かうクヌートとHiruko。だが、フェスティバルの講演者であるナヌークは、オスロで開催されるコンペに出場するためオスロへ行ったきり、帰ってこない。ナヌークを追いかけるノラ。ノラからナヌーク/テンゾのことを聞き、同じ国の人と話をしたいとナヌークをおいかけるHiruko。クヌートもHirukoとともにオスロへ行く予定が母親につかまり、代わりにアカッシュがオスロへ向かう。しかし、オスロで出会ったナヌークは日本人ではなかった。しかしナヌークから新たな日本人Susanooのことを聞き、南仏アルルへ向かうHirukoとノラ、ナヌーク、アカッシュ。そしてクヌート。しかしようやく会えたSusanooは言葉を話すことができなくなっていた。そこへ現れるクヌートの母親。

 しっちゃかめっちゃかのストーリーの中に、母国や母語の意味を問い、地球に住むこと、住んでいること、本来のグローバルについて考えさせる。そして最後は、「それなら、みんなで行こう」(P309)と新たな旅立ちを宣言する。旅、流浪、地球、母国と母国語。若くしてドイツに渡り、日本語とドイツ語の両方で考え、小説を書いてきた筆者ならではの作品だ。そうだ、みんな同じ地球号の乗組員だ。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

○私のパンスカは、実験室でつくったのでもコンピューターでつくったのでもなく、何となくしゃべっているうちに何となくできてしまった通じる言葉だ。大切なのは、通じるかどうかを基準に毎日できるだけたくさんしゃべること。・・・まわりの人間たちの声に耳をすまして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれが一つの新しい言語になっていくのだ。(P38)

○国にこだわるなんて自分に自信のない人のすることだと思っていた。でも考えまいとすればするほど、誰がどの国の人かということばかり考えてしまう。「どこどこから来ました」という過去。ある国で初等教育を受けたという過去。植民地という過去。人に名前を訊くのはこれから友だちになる未来のためであるはずなのに、相手の過去を知ろうとして名前を訊く私は本当にどうかしている。(P91)

エスキモーであることに誇りもロマンも感じていなかったが、逆に劣等感も持っていなかった。それがコペンハーゲンで暮らしているうちにだんだん民族という袋小路に追い詰められていった。俺を見た人間はすぐに俺をあるカテゴリーに仕分けしてしまう。そしてそのカテゴリーに名前をつけるとしたら・・・まぎれもなくエスキモーなのだ。・・・まるで俺の身体をエスキモーと書かれた膜が包んでいて、外からくる視線は膜の表面でとまってしまい、誰もそれより奥にはいってこられないみたいだった。(P132)

○空気といっしょにわたしの口から入って肺を満たし、ミリンと醤油の混ざった甘辛い味といっしょに食道を降りていってお腹の綿にしみわたり、血管に潜り込んで絶えず脳に送り込まれていたあの言語を理解してくれる相手がもうすぐ目の前に現れるのだ。/わたしとテンゾは数分言葉を交わせばそれだけでもう、計り知れないほどたくさんの糸で結びついていることが明らかになるだろう。それは言葉の糸だ。(P166)

○僕もネイティブという言葉には以前からひっかかっていた。ネイティブは魂と言葉がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話し言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって・・・必ずしも正しいわけではない。(P210)