とんま天狗は雲の上

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後醍醐天皇

 「陰謀の日本中世史」に続いての「後醍醐天皇」。ただ、筆者の兵藤裕己氏は歴史家ではない。専門は日本文学(と「あとがき」に書かれている)だ。後醍醐天皇を巡る歴史書物としては「太平記」が最もポピュラー。その「太平記」の校注本全6冊を2016年に刊行し、その次の仕事として本書が書かれている。

 「太平記」は、足利政権をある種の正史として書かれた物語本であり、後醍醐天皇は、足利幕府の祖、足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒した時の天皇である。一方で、後醍醐天皇の「建武の新政」はわずか2年余りで瓦解し、南北朝時代はここから始まった。後醍醐天皇が始めた天皇親政は、宋学を積極的に取り入れるとともに、無礼講を催し、旧来のヒエラルキーに縛られた閉塞した社会を解放し、実力主義の人材登用を行った。

 第4章「文観弘真とは何者か」では、「太平記」で妖僧として語られる「文観弘真」について説明がされている。これはいったい何かと思ったが、結局、これらは後醍醐天皇の進取の精神を描くものであり、後醍醐天皇は宋に倣った新しい政治・新しい時代の創設を目指した。しかし結局はその政治手法が守旧の公家社会では入れられず、「物狂いの沙汰」と批判され、建武の乱で敗れ、京を離れ、その後いったんは盛り返したものの、ついに京に入ることなく、吉野へ逃れ、死去する。

 序章の末尾に書かれた「天皇をめぐるディスクール(制度化された言表)に、考察の一つの軸足を置くことになるだろう」(P12)の意味が最初、理解できなかったが、最後まで読むとようやく言わんとすることがわかる。後醍醐天皇が始めた「新政」は、その後、水戸藩における「大日本史」を巡る論争を経て、王政復古から現在に至る天皇観へとつながっている。良きにつけ、悪しきにつけ。

 まさか今から700年も前の1300年代の出来事が、現在にまでこれほど大きな影響を残しているとは。歴史というのはこうして現代につながっている。実にバカにならないものだ。

 

後醍醐天皇 (岩波新書)

後醍醐天皇 (岩波新書)

 

 

○家格の序列や官職の世襲制を否定する後醍醐の人材登用は・・・先例と故実を重んじる公家社会の内部からも反発を招いていた。/だが、そんな周囲の反発が、かえって天皇側近の中下級の貴族たちに、宋学とともに渡来した士大夫ふうの自恃の意識を生じさせたものらしい。・・・その背景にあったのは、中国宋代の中央集権的な国家イメージだった。(P59)

天皇の親政を掣肘する公家の合議制を解体し、天皇が官僚機構を統括して直接「民」に君臨する統治形態が、後醍醐天皇の企てた「新政」(天皇親政)である。それは門閥や家格のヒエラルキーを無視・否定することで実現される。そのような既存の序列(礼)が無化される象徴的な場として、「無礼講」の宴は催されたのだ。(P65)

日野資朝らの天皇親政の理想は、しかし14世紀日本の政治的現実をまえに挫折せざるをえなかった。/「新たなる勅裁」の政治を実現するための諸条件が、14世紀の日本には存在しなかったのであり、そのことは、建武政権がわずか2年余りで瓦解した理由である。・・・日本のばあい、中国の律令制は模倣しても、科挙による人材登用は制度としてかつて根付かず、人材の供給源となるべき官僚予備軍の知識層も、ひとにぎりの中下級貴族をのぞけば、ほぼ皆無といえる状態だった。(P167)

○しかし政治思想史のうえでは、後醍醐天皇の「新政」の企ては、出自や家柄、門閥に根ざした身分制社会にたいするアンチテーゼとして、この列島の社会における「王政」への幻想を醸成することになる。/既存の身分制社会や、世俗的な序列を解体して、天皇がすべての民にひとしく君臨する一君万民の統治形態は、ある種の解放・革命のメタファーとして、やがて幕末から近代のいわば「王道楽土」のファンタズムを生みだすだろう。(P177)

後醍醐天皇の企てた「新政」は、500年の時を隔てて、日本の近代を呪縛したのである。・・・じっさい私たちは、昭和の破滅的な戦争を体験したあとも、天皇を国民的統合の象徴とする憲法をもっている。・・・現実の社会に浸潤する身分や階級のしがらみから人びとを解放するイメージとしての天皇制は、後醍醐天皇の親政(王政)の企てから始発したのだ。(P232)