とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

間違った情報があるのではなく、情報の正誤を判断するのはあくまで受け手

 フェイクニュースが叫ばれ、情報には正しい情報だけではなく、間違った情報もあるので注意しなさいと言われる。でもよく考えてみると、情報自体には正誤はない。発信者から受信者へ伝えるもの。それが情報であって、文字や映像、音声などの形をしているが、電波や紙自体が悪者なわけではない。情報の内容が真実に照らして誤っている場合もあるだろうが、そもそも何が真実かはよくわからない。

 「とんま天狗3号は女性だ」という情報が伝えられたとすれば、それを受けた私は「それは誤りだ」と判断できるが、他の人は確信をもってそれが誤りだと判断はできない。全くの他人であればその情報は「正しい」と思うだろう。発信者が自覚して「嘘の情報」を流す場合もあるだろうが、多くの場合は「たぶん女性ではないかな?」と推測してその情報を流しただろうし、そうした推測情報が正しい情報として拡散されることもあるだろう。だからと言って、私に確認しなければ、その情報が正しいかどうかわからないし、私が嘘を言うことだって考えられる。だとすれば、情報の正誤は結局、情報の受け手が自己責任でもって判断するしかない。

 その場合に、信頼を寄せる人がどう判断しているかは、自分で判断する場合の一つの判断基準ではあるけれど、その人が常に正しいとは限らないし、その人だって、別の誰かの判断を採用しているだけかもしれない。本当の真実などはわからないのだ。そう思っていた方がいい。

 「間違っているかもしれないけど、現時点ではこれは正しいと判断して、自らの行動や言動を行っています」と割り切って考えることが必要だ。そして後日、正しいとした判断が誤りだと考えたならば、それを正せばいい。あの時の自分と今の自分は常に別人だ。過去の判断に拘泥する必要もないし、それが他に影響を及ぼしたのなら責任を取るしかない。過去の判断を翻すことを恐れる必要はない。逆に捉われる方が自分を追い詰めるだろう。

 とは言っても、伝えられた情報を常に正しいと思うのも、常に疑わしいと考えるのも、どちらも問題だ。多くの場合、情報はまず正しいものとして受け止めつつ、自身の常識や知識などに照らし、疑わしいことはないかと吟味する。発信者に信頼がおけるか、内容が一面的な見方でできていないか、間違っている可能性はないか、など。そして、どの情報も100%正しいとは考えず、一定程度の真実度を設定して取り扱う。

 結局、情報の正誤は受け手が判断するものなのだ。太陽が西から上ろうが、「それでいいのだ!」とバカボンが言えば、バカボンにとっては「それでいいのだ」。