とんま天狗は雲の上

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異端の時代☆

 筆者は神学者宗教学者であって、宗教としての異端を論じている。しかしそれは同時に現代社会における危機を論じることでもある。現代はまさに異端の時代であり、正統が消失してしまった(しつつある)時代だからだ。

 「みんな違ってみんないい」。そんな多様性を認める社会は、一方で社会の健全性を損なっている。トランプ政権や反知性主義を例にして、いま、正統・異端論を考える意味を提示した上で、第1章では丸山真男における「L正統」と「O正統」を腑分けしながら、正統、特に日本における正統のあり方について考察する。

 第2章から第4章までは、正統は正典が作るのか、教義が定めるのか、聖職者が担うのかを順に検討していく。結論は、正統は大衆が担う。初めに正統があって、正典が作られる。そして教義は正統が先にあって定められる。その上で、異端の成り立ちを考えていくと、「正統あっての異端」ではなく「初めに異端ありき」、異端が現れ、初めて正統が明らかになる。それも正統でないものを否定して、最大外周を指し示すという方法でしか定義づけられない正統性。この第7章の考察から、自由の意味が立ち現れる。自由とは単に無制約であるのではなく、制約があってこそ創設される。しかしそれは苦しい。

 第8章「退屈な組織と煌めく個人」では、「宿命」から解き放たれて「選択」を余儀なくされた現代社会を「異端の普遍化」「異端だらけの時代」と喝破した。終章「今日の正統と異端のかたち」では、改めて民主主義とポピュリズムを取り上げ、正統性を僭称する政治家の存在や正統の信憑性構造の揺らぎを指摘する。そして次の正統となり得る真正の異端の登場を期待する。

 今まさに、正統なく異端もない時代。異端を唱える気概もなく、ただ口先だけでお上叩きがされる。だが真の意味で個人と社会をつなぐためには、その間をつなぐ宗教が必要とされる。それは現在の商業的な宗教ではなく、正統性を担うべき宗教。しかもそれは異端から生まれる。真正の異端から。宗教を論じて、社会を論じる。当初の想定以上に骨太な考察がされている。現代社会のあり方を問う好著であった。

 

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)

 

 

○正統とは、人びとがその権威をおのずと承認せざるをえないような何ものかである。・・・理詰めで相手を同意させなければならないような結論は、正統ではない。ましてそれは、権力が何らなの強制によって受け入れさせることができるものでもない。・・・正統派、おのずと醸成され、知らぬ間に人びとの心に浸透する。そのようにして気づかれぬままに精神の支配を樹立したものだけが、正統たり得るのである。(P76)

○ペラギウス主義とは、善が勝利することへのほとんど宗教的な信頼のことである。その信頼は、現代社会のさまざまな局面にあらわれている。・・・だが人間・・・の決定は環境や社会に制約されてしばしば非合理的である。・・・民主主義は、各人の自由な決断という前提の上に成り立っているが・・・人間は、けっして自己の運命の支配者ではない。自由は制約の下でしか存在せず、善は暴走して悪に転化する。(P120)

憲法を制定するということは、単にある法律文書を作ることではない。それは、ある「状態」を作ることである。・・・それが実際に人びとの暮らしに根づき、社会の慣習となり、公共精神の基幹となっているような状態を作る、ということである。・・・憲法は、ある時代に優勢な一握りの政治家たちが制定した、ということだけでは機能しない。人びとがおのずと認めるような権威がなければならないのである。ここに、正統性の問いがある。(P175)

古代ギリシア人の考えたコスモスには、生命と秩序が内在していた。そこへ聖書的な創造観が登場し・・・世界は創造者によって外から目的や意味を与えられた・・・。その聖書的な創造観をも失ったのが、現代人である。その結果、人は・・・自然世界の中に放り込まれた「偶然的な存在」にすぎなくなった。/にもかかわらず、人はどこかに意味を求め続ける。もし客観的な世界の側に意味がないのなら、それは自己の主観の内に見いだされなければならない。・・・意味付与は、今や個人の主観や決断の問題となった。(P198)

○もし選ぶことが異端なら、そしてすべての現代人が選ぶことを強制されているなら、現代は異端が普遍化した時代である。異端だらけの時代に、正統の居場所がないのは当然だろう。・・・正統という明確な背景があってこそ、異端も生きる。だから、失われたのは正統だけではない。正統の消失とともに、異端もまたホームレスと化して大都会の裏通りを彷徨うことになったのである。(P202)

○権威はそれが真理として主張されるようになった時点で、すでに揺らいでいる。・・・人間によって作られた制度は、正統として本来的に機能している限り、自己隠蔽能力をもっているからである。つまり・・・誰もそのことに思いをいたさないところにこそ、正統は存在している。・・・正統は「どこでも、いつでも、誰にでも信じられている」かのように存在していなければならない。(P234)