とんま天狗は雲の上

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国体論☆

現代日本の入り込んだ奇怪な逼塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が、「国体」である。……1945年の敗戦に伴ってもたらされた社会改革によって、「国体」は表面的には廃絶されたにもかかわらず、実は再編されたかたちで生き残ったからである。……そしていま、アメリカの媒介によって「国体」が再編され維持されたことの帰結を、われわれは目撃しているのである。……われわれの今日の社会はすでに破滅しているのであり、それは「戦後の国体」によって規定されたわれわれの社会の内在的限界の表れである。(P4)

  「序―なぜいま、『国体』なのか」の中の一文である。戦前における国体とは天皇を中心とする国家体制であった。それは単に政府ということではなく、国民の心に信じられた日本の体制である。そして戦後、「天皇」という言葉は、実質的には「アメリカ」という意味に置き換えられ、日本はアメリカに従属することで国家が運営され成り立つ国になった。それが筆者の国体観である。そして戦前の国体のあり方を、明治時代=「天皇の国民」、大正時代=「天皇なき国民」、昭和前期=「国民の天皇」と定義するとともに、それが戦後においては、「アメリカの日本」「アメリカなき日本」「日本のアメリカ」と変化しつつ現在に至っていることを第3章以降で詳細に説明していく。

 その前にまず、天皇の「お言葉」である。2016年8月8日に発せられた天皇の呼び掛けは、いったい何だったのか。これこそまさに天皇による闘争であり、天皇制批判であった。今上天皇が「象徴天皇」という意味をどう理解し、行動し、「お言葉」を発せられたかを分析する時、今、直面している「アメリカ」を天上に抱く戦後の「国体」体制がいかに限界に達しつつあるかが見えてくる。すなわち「われわれの今日の社会はすでに破滅しているので」ある(まるで「北斗の拳」みたいだ!)。「戦後民主主義象徴天皇制はワンセットのもの」とはそういう意味だろう。

 象徴天皇制とともに、戦後民主主義も危機に瀕している。そして天皇の「お言葉」を実現するのは民衆の力。本書最後の一文「民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である」という言葉は重い。代議制とか、君主民主制とか、制度ではない。民衆の意志が現実になる社会こそ、真の意味で民主主義である。「アメリカが天皇の役をやってくれて、それでいいのであれば、日本の天皇など必要ない」(P39)という文章を真に受けて考える必要がある。真の自由はけっして楽には得られない。しかし日本人がいつまでも本物の奴隷であっていいとは思わない。

 

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

 

 

天皇たるもの……存在しているだけで「象徴」たり得る、というわけでは決してない、……天皇が「動き」、国民との交流を深め、そしてそれに基づいた「祈り」を実行することによってはじめて、天皇の持つ「象徴」の機能は作用しうる……天皇はその祈りによって、日本という共同体の霊的中心である、……天皇の務めの本質は、共同体の霊的一体性をつくり上げ維持することにある。(P27)

○戦前のデモクラシーの限界が明治憲法ジームによって規定された天皇制であったとすれば、戦前のデモクラシーもまたその後継者によって限界を画されている。いずれの時代にあっても、「国体」が国民の政治的主体化を阻害するのである。/被支配とは不自由にほかならず、支配の事実を自覚するところから自由を目指す探求が始まる以上、支配の事実が否認されている限り、自由を獲得したいという希求も永遠にあり得ない。つまり、日本の戦後民主主義体制とは、知性の発展と自由への欲求に対する根本的な否定の上に成り立っている。(P130)

○かくして……占領期における「アメリカの日本」という構造は、占領期を超えて無際限に維持されることとなった。それは、日本の側が自発的に主権を放棄することによってである。/かかる代償によってわれわれは何を得たのか。それこそが、「国体は護持された」という擬制にほかならない。……しかし、すでに見たように、客観的な意味での国体は変更を受けるほかなかったのであり、あくまでも日本人の主観(物語)において国体が護持されたにすぎない。(P158)

ニーチェ魯迅が喝破したように、本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。(P297)

○この事態が逆説的に見えるのは、起きた出来事は「天皇による天皇制批判」であるからだ。「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。もし仮に、日本人の答えが「それでいいのだ」というものであるのなら、それは天皇の祈りは無用であるとの宣告にほかならない。(P338)

○「お言葉」が歴史の転換を画するものでありうるということは……潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。/民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。(P340)