とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

カズオ・イシグロの視線

 昨年はカズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞して大いに話題となった。本書はそんなカズオ・イシグロの全作品を素材に、イシグロ文学を多面的に研究した論文集である。7つの長編と1つの短編集について、各研究者からそれぞれの視点で分析し研究した論文が掲載され、さらにカズオ・イシグロに見る日本映画や文学の影響、カントリハウスに代表されるイングリッシュネスの変遷、「遠い山並みの光」を英語教材として使用している大学教師からの報告、そして各作品から読み解く「カズオ・イシグロの運命論」の変遷の各論文が並んでいる。最後に、カズオ・イシグロの作品紹介やカズオ・イシグロ研究のための文献案内まで付いて、まさにカズオ・イシグロ研究のための専門書だ。

 一応、全作品を読んできた、と豪語した私だが、本書を読み返しつつ、「あれ、そんな作品だったっけ」と何度も振り返る。実に、どうやら雌竜クエリグの息を浴びたように、多くは霞のように忘却の中に消え去っている。これはもう一度、各作品を読み返さなくては。それでもこうして、専門家がいかにイシグロ作品を読み、分析しているかを知ることは、再読をより深いものとしてくれるだろう。本書の記憶が薄れないうちに、再読しなくては。

 それにしても、文学部の先生方はこのようにイシグロ作品を読み、分析しているのかと、その点に大いに興味が湧いた。改めて私の読書感想を読むと、いかに自分が浅くしか読んでいなかったかということに気が付く。ただの読書愛好家としては、その時だけ面白く、感動できればよいわけで、深い意味など知らなくても、読み終えることができればそれで満足してしまう。なかなかここまで深い読みはできない。それでもこのように読み取ることができれば、さらに読書は楽しくなるだろう。カズオ・イシグロの読み方を教えてもらった。さっそく実践してみなくては。

 

カズオ・イシグロの視線――記憶・想像・郷愁

カズオ・イシグロの視線――記憶・想像・郷愁

 

 

○悦子が何度もその奥へ分け入るぬかるんだ空き地は、原爆によって蹂躙された混沌とした場所である。しかしそこはまた……さまざまな虫が飛び交う、力強い生命力に満ちた土地でもあった。それはまた……女たちの領域であり、彼女たちの避難所でもある。つまりこの場所は、戦争によって深い心の傷を負いながらも、過酷な環境で何とか生きていこうとする女たちそのものの姿を象徴している。あるいはそれを女性の体内になる子宮の隠喩と捉えることもできるだろう。(P28)

○シティズンシップの名のもとに、一方ではアクティブな能力主義個人主義が進められ、もう一方では共同体のために個人が自主的かつ無制限に奉仕することが求めれているが、この結果として……人々のあいだの連帯は強まるどころか弱体化して個々の孤立化が促進されている。……『充たされざる者』のキャラクターたちが見せる、公的な領域での成功と私的な領域の問題解決を結びつける混同も、サッチャリズムの影響が……反映したものと言えるだろう。(P103)

○記憶は2人の絆を強固にするというより、しばしばその亀裂を露呈させる。唯一それを完全に一致させる方法は、過去のすべてを忘れ、たえず「今」という瞬間の一体感だけを確認しながら生きることだ。……過去の記憶が一体化するような絶対的な「愛」とは、それ自体大きな錯覚である・・・。老夫婦の物語は、そのことを象徴的に表現している。あるいは錯覚というものがいかに人間を救うか、というテーマに置き換えてもいいだろう。(P145)

○イシグロは、共同体が独自のアイデンティティを構築し強化する際に、過去を共有しているという意識が利用されること、そして、共同体にとって不都合な過去を排除し、隠蔽することで成立する正史のイデオロギー機能とを明らかにしている。……『忘れられた巨人』の登場人物たちは皆、かつての戦争を自分たちとは無関係な大昔の出来事と……顧みることもないのだが、この彼らの半ば受動的な意志的忘却が……実は、そうして捏造された正史と「共犯」の関係にあることをイシグロは示している。(P202)

○初期作品……に見られる、個人が大きなパースペクティヴを獲得することが困難であるというイシグロの運命主義的な認識は、1995年以降コントロールの不可能性という新たな運命論的な認識へと深化し、2000年以降はコントロール不可能性が固定的なものとして捉えられて、そこから死の受容という新たな課題が浮上している。『わたしを離さないで』においてイシグロが死の受容という問題を扱ったのも、パースペクティヴやコントロールといった概念を突き詰めた帰結なのであろう。(P300)