とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

穴あきエフの初恋祭り

 昨年11月、多和田葉子「献灯使」が「全米図書賞」を受賞したというニュースが流れていた。福島原発事故を受けて、今後の世界のあり方を描いた「献灯使」は海外での評価は高い。次にノーベル文学賞を受賞するのは多和田葉子ではないか、などと思いつつ、引き続き、多和田葉子を読み続けている。

 多和田氏の小説には二つの特徴がある。漂流者・外来者の視点と言葉遊び。本書もその特徴がよく表れた作品だが、中でも後者の特徴が強い。「穴あきエフ」というタイトルからして意味不明。7作収められた短編の中の一つだが、読んでみるとどうやら、キエフのある町の祭りを描いたものらしい。「穴あきエフ」とは「アナーキエフ」?

 こうした言葉遊び(同音異句語)は、読んでいてもなかなか付いていけないのだが、本書に収められた他の短編、留学から戻ってきた青年と幼馴染との交流や、文通による意思疎通の齟齬などを描く各作品からは、ドイツ在住の筆者ならではの、コミュニケーションのすれ違いに大きく関心を持っていることがわかる。

 中でも面白く読んだのが「鼻の虫」。人間の鼻の中には、鼻毛に棲みつく虫がいる。人間と他の生物との共生をテーマにしているのだが、この短編の冒頭は、博物館での「体の中の異物」展から始まる。「異物」。それはすなわち、ドイツに暮らす筆者自身のことかもしれない。いや、各個人自体が社会にとって異物かもしれない。特に言葉のすれ違い、変換ミスの中にその「異物感」が現れる。違和感。私はこの社会の中で生きていていいのだろうか。そんな感じ。

 後半の2作などは特にわかりにくいのだが、それでも何とか読み終えた。簡単に読めるけど、難しい。多和田ワールドが満載の短編集だ。

 

穴あきエフの初恋祭り

穴あきエフの初恋祭り

 

 

○こいつはなぜ泣いているんだ。男性の気持ちは理解できない。……人間は家庭用電化製品としては複雑すぎて実用的ではない。Iには炊飯器くらいのメカニズムでちょうどいいのだ。温かくて、美味しくて、清潔で、長持ちする炊飯器が急に懐かしくなった。(P17)

○胆石は、外部から身体の中に入ってくるわけではない。我が身からにじみ出た汁が固まってできるのだろうから、異物であっても異物ではない。自分の一部が意固地に固まってしまうと、まわりの器官と交流できなくなり、孤立して痛み出す。それが異物なら、異物とは特定のモノではなく、ある関係をさすのではないかと思う。……異物が悪玉であるとは限らない。……食べ物だって口に入れる時は異物なのだから、必ずしも異物は取り除かなければいけないというわけではなく、むしろ異物なしには生きられないのが生命体の特徴かもしれない。(P61)

○わたしたちはみな、どんなに巧みに文字を練ってもそこからすべり落ちてしまう身体によっていつかは「嘘の死」と書かれた恥辱の仮面をかぶって真っ赤なスポットライトを全身に浴びる。その身体は観客には見えるが自分自身には見えない。わたしは今、観客の側にいる。だから見えている。見えている限り、倒れているのは自分だと言い張っても意味がない。(P79)

○和紙の束のようなものは持ち上げると、するするどこまでも伸びる。ただの和紙の束に見えたオブジェは、長さ1メートル50センチくらいもある提灯だった。墨で描かれた黒い四角形が窓のように見えて高層ビルを思わせる。……底にクロスされた針金の真ん中に固定された燃料にマッチで火を付けると、ガスが提灯の中にたまって、提灯が気球になって飛んでいくらしい。……わたしたちの気球提灯は、一度上昇してから、丘のはるか下に見える町に向かってゆっくりと降りていった。(P112)