とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

リベラルアーツよりも大切なこと

 年末近く、友人とメールを通してリベラルアーツについて議論を交わしていた。

 彼曰く、「今、大学は金になる分野ばかりがもてはやされ、文系の諸学部は冷遇されている。もっとリベラルアーツ、所謂『教養』を大事にするべきだ。文学や哲学に限らず、大学は『知』を大事にするべきだ。それが大学の意味じゃないか? 金になるだけの教育なら職業学校と言うべき。『教養』の土台が無ければ貧しい研究になるだけではないか。日本人の知識人は江戸時代から教養を追及してきた。」と書いてきた。

 ちなみに、リベラルアーツWikiで牽けば「『学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム』に与えられた名称」と書かれている。翌週のメールでは、「「経団連が大学側に対して『文系の学生も数学を学ぶべきだし、理系の学生はリベラルアーツ(教養)を学ぶべきだ』と求めることになった」という記事を紹介しつつ、今の若者は教養に欠けており、思考がペラペラだ」と書いてきた。

 それで私からは、「そもそもリベラルアーツと専門知識の境はあるのだろうか。例えば、数学でいえば、数3はリベラルアーツだとして、大学で習う、偏微分フーリエ級数リベラルアーツかどうか。経団連の提言も見たが、彼らが言っているのは所詮、『若い奴らと話が合わない』ということではないのか。

 身につけるべきリベラルアーツはどれか、と言ってもたぶんリスト化できるものではなく、最終的に、どれだけ『自分で考える力』があるか、ということではないだろうか。量的な知識や教養はスマホで検索すればいくらでも入手できるが、『自分で考える力』は、読書や思考、そして様々な実体験を重ねなければ身に付かない。知識や教養を覚える・教わるで終わるのではなく、その上で、『自分で考える』ことが大切。『考える』ための知識や教養であって、知っているだけでは衒学的になってしまう」と返した。

 すると、彼曰く。「知識は思考の十分条件ではないが、絶対条件ではある。知識は思考の材料であり、道具であり、犂や鍬が無ければ畑を耕せないように、豊かな収穫を得るためには必要なものだ。『考える力』は大事だが、それは基本的な知識があって初めて言えることであり、知識が積み重なっていけば、果実が自然に発酵するように、自ずから考え始めるのです。」と返事が返ってきた。

 改めてこうコピー&ペーストしてみると、堂々巡りしている部分もあるが、彼は「リベラルアーツの重要性」を主張し、私は「しかし最終目標は『自ら考える力』だ」と言い、それに対して彼は「知識・教養があればこそ」と言っている。とすると、次の議論は「知識や教養があれば自動的に自ら考え始めるのかどうか」という点に収束するのだろうか。答えは「ノー」。と言いたいのだが、仮に何らか考え始めるとして、次の問題は「何を考えるか」ということになる。でも人は自ら「考えたいことを考える」のであって、それを他者から見ると、幼稚に見えたり、衒学的に見えたりする。それは人それぞれ積み重ねてきた知識や経験が異なるためであり、誰が正解とは言えない。たぶん、みんな少しずつ正しく、少しずつ間違っている。だから議論の結果、両者が十分納得して合意し、同じ結論に至ったとしても、たぶん同床異夢。それでも「同じ床」を作ることができただけでもすばらしい。そして、知識や教養は一定程度保有していた方が「同じ床」への到達時間は速い。だからと言って、その「床」が常に正しいとは限らない。別の人が考えれば、別の「床」ができる。所詮、そんなものではないか。

 この記事を書こうと思ったのは、昨年末発行された藤原正彦の「国家と教養」がけっこう売れているという記事を見たから。もちろん教養はないよりあった方がいいだろうが、それ以上でもそれ以下でもない。「教養が重要だ」と言えば言う程、品性は下がる。ましてや「教養がない人間はダメだ」となっては、まさに衒学的。自己肥大に陥っていると言うべきではないか。と、「国家と教養」を読みもせずに書いている。でも読む気がしない。たぶん読まない。だからこそ読む前に書いておく。