とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

はしっこで、馬といる☆

 作者の河田さんは、東京で出版関係の仕事をしていて、ある日、与那国島でウマと出会い、カディという名の仔馬と巡り合い、与那国島でカディとともに暮らす生活を始めた。既に5年以上が経過。ウマを屈服させ従わせるのではなく、常に寄り添い、ともに暮らす中で、次第にウマとの付き合い方を覚えていく。「ウマの気持ちによく耳を傾け、/愛情と敬意をもって接すること。/ウマの視線で世界を見ようとすること。/ウマの時間に合わせること。/「馬語」で話しあうこと」(P39)。そうして手に入れたウマとの暮らしは、ウマの「身内」としてお互い信じあい、心と心が響き合い、行動がシンクロする。

 ウマとともに暮らす生活はとても豊かだ。日々、発見がある。日々、変化する。さらに信頼を深めていく。河田さん曰く、ウマには「可塑性」がある。「受け入れ変化してゆく力」がある。そのことを「ウマとヒトとの関係」の可能性と捉える。どんな可能性かな? それは「ヒトとヒトとの関係」に応用が利くのだろうか。

 「あとがき」に「『はしっこ』って、『波打ち際』みたいなものかもしれません。いまある世界と異なる世界をつなぐ際(きわ)というか、つねに生成されつつある瞬間のようなもの、というか」(P228)と書かれている。「はしっこで、馬といる」。本書は、そんな「はしっこ」から発信された、異界からのメッセージのようだ。描かれたウマのイラストはどれも今にも動き出しそうだ。

 

はしっこに、馬といる ウマと話そう?

はしっこに、馬といる ウマと話そう?

 

 

○「野生」というと、/荒々しいもの、雄々しいもの、/というイメージがありますね。/そういう面もたしかにあるけれど、/女性的、というのでしょうか。/たとえば、寄せてはかえす波のように、/つながりながら、変化しながら、/たがいを育んでいくようなこと、/地面に結びついているようなこと―。/「野生」には、/そういう質もあるような気がしています。……この島でウマと暮らすということは……そのウマの存在をとおして、/もっとおおきな「野生」の世界につながっていく、/ということなんじゃないかなあと感じています。(P24)

○ウマとヒトの関係性は、じわじわと育まれていきます。力がなくても、能動的になにかをしなくても、ウマの時間に合わせていれば、起こることは起こるし、伝わるものはいずれ伝わる。(P67)

○もし相手を「身内」と思っているなら、ウマだって、できるだけ心地よい関係をつくりたいはずです。ですから、こちらの反応を見て、「あ、ここまではいいんだな」「こうすると困るんだな」ということを確かめていきます。/その結果、「わたし」というヒトの「でこぼこ」に合わせて、ウマは自分のこころと行動を、すこしずつ変えていってくれるのです。/わたしのほうも、相棒であるウマの「でこぼこ」に合わせて、すこしずつ自分のこころと行動を変えていきます。ふたりが出会ったところに、ひたひたと変わりつづける、やわらかい接点がある、という感じです。(P100)

○そもそも、ウマが「NO」と言うのは、ワガママなのでしょうか。/わたしには、単にウマがウマらしく生きているなかで、自分にとって違和感のあることに対し、「NO」と言っているだけのように感じられます。/わたしは、カディが「いや!」と言ったら、「そうか、嫌なんだね」と受け止めます。そして、なぜ嫌なのかを考えます。すると、ウマについての理解がまた深まります。/そのあとどうするか、というと、なにもしないですこしぼんやりするか、カディが同意してくれる、ちがうことを一緒にします。(P162)

○「ウマとヒトの関係」は、/「そのヒトが、どのような立ち位置で、/どのようにウマと関わりたいと思っているか」/によって、内容や角度がずいぶん変わってくるのではないかと思います。/わたしがウマとヒトの未来を思うとき、/この先に「まだ見たことのない風景」が広がっている、と感じます。/ウマには、ヒトがこれまで意識してこなかった/すぐれた特質が/まだまだあるような気がするからです。/たとえば「受け入れ変化してゆく力」、/あるいは「応答性」とでも名づけたい感覚のもの。(P191)