とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

不条理への耐性を支える社会の厚み

 川崎市でスクールバスを待つ児童や保護者を相手に刃物を振り回し、殺傷する事件が起こった。悲惨で邪悪な事件だが、この事件を受けて、政府は「全ての小中学校における登下校時の安全確保を指示した」と報じられている。翌日のワイドショーもどうすればこうした凶行を防げるかと議論していたが、実際のところ、できることは少ないし、今後講じられるいくつかの対策も結局徒労に終わるのだろうと思ってしまう。防ぎようがないのではないか。その点では、殺人犯を精神的にここまで追い込んでしまった社会状況や彼らを支える仕組みの方をこそ検討する必要がある。

 一方で我々、一般庶民としては、人生のうちにこうした不条理な出来事はしばしば訪れると諦めるしかない。しかし、「諦める」ためには心にゆとりが必要だ。不条理な出来事に対し、如何に耐えて、次の人生を歩んでいけるか。そのためには社会的な支えが不可欠だ。

 これまでの日本では、こうした突然の不幸に見舞われた場合、家族や親族、地域の人々などが慰め、立ち直るまで温かく見守ってくれる。そんな仕組みが社会に存在していた。しかし今はこうした仕組みの多くがドンドンと薄くなり、悲劇に見舞われた人が孤立し、さらに絶望へと追い込まれてしまうケースが増えているように感じる。実は今回の事件の犯行者もそうした人々の一人かもしれない。少なくとも伯父伯母以外に家族はいないようだ。

 GW明けに滋賀県で起きた保育園児の交通事故の際に、記者会見する園長に対して、園児の安全対策に手落ちはなかったのかと追及するマスコミに批判が集まった。突然の事件・事故に対して、その原因をさまざまな側面から追求することはけっして間違ってはいないし、「これも運命だ」とすぐにあきらめてしまうことが正しいわけでもないが、全ての出来事に原因と対策があると考えるのも間違っている。ましてや、滋賀県の事故の場合は、あの状況で園長に交通事故被害に係る原因を問うても、大して有益な情報が得られるとも思えず、批判されてしかるべきだったとは思う。逆に、あの状況下でなお、原因追及をしてしまう行動に対して、マスコミにおける不条理への耐性のなさを感じた。

 今回はさすがに小学校側の責任を追及する言動はなかったが、小学校のスクールバス乗車時の対応を確認し、また政府がすぐに「全ての小中学校における登下校時の安全確保を指示した」ということ、またメディア等もそれを当然と考える風潮に、逆に日本社会の不条理に対する耐性のなさを思ってしまう。突然の不条理に対して家族や社会として支える仕組みがほしい。かつての日本が持っていたであろう社会の厚み、それがあればこそ我々は突然の不条理にも耐えることができるようになるだろう。