とんま天狗は雲の上

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ふたつの日本

 中日新聞の書評で本書を知って、読みたいと思った。その時は、もう一つの日本=すなわち移民たちが生活する社会の様子がドキュメント風に描かれた本かと思っていた。しかし、そうした記述もあるが、何より「移民」=「在留外国人」の実態を、数字や制度に応じて記した論文である。

 2019年4月に入管法が改正され、新たに受け入れる外国人労働者の枠が広がった。しかし政府はこれを移民政策とは呼ばない。表向き「移民は受け入れない」と言ったところで現実的には移民は増えている。外国人労働者の受入れには表向きのフロントドアの他に、サイドドアとバックドアがある。研修・技能実習生や留学生などとして入国した外国人のうちの多くが、そのまま日本に在留していく。そして彼らを社会の一員として正視しないままでは、その矛盾はますます大きくなり、受け入れ側の社会をも蝕むようになってくる。そうした移民政策(ならざるもの)の背景には、日本人をも自己責任として突き放す権力側の規範が見え隠れしている。すなわち他人事ではないのだ。

 だが一方で、中国、ベトナム、ネパールと転入外国人が変わっていった先に、日本など外国人から労働市場として見向きもされない時代が来るのではないか。それもそれほど遠くない時期に。その時、日本はどうなってしまうのか。帰る国のある移民の方がまだマシ。帰る所もない日本人こそ困り、そして海外へ労働を求めて移民として出ていく。早晩、そんな時代が来るかもしれない。その頃には、今の権力側にいる人々や富裕層はとっくに海外へ脱出していることだろう。その時こそようやく日本はひとつの国になれるだろうか。一つではなく、0.5位になっているのかもしれないが。 

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

○国家は経済を無視することができない。なぜなら国家は経済から生み出される富の分配なくして存続できないからだ。……だが、国家が「経済」的な理由で受け入れを決めた移民に対して、「人権」の観点に立って国民と同じだけの権利を保障するとは限らない。……重要なのは国家が人々の権利保障のほぼ唯一の担い手であるということだ。……「移民」から「人間」を省略することなどできはしないのだ。にもかかわらず彼らを「ナショナル」と「グローバル」の狭間に放置し続けるのであれば、それは社会統合の失敗として必ず受け入れ社会側にも跳ね返ってくる。(P32)

○日本には109万人の「永住移民」がおり、155万人の「非永住移民」がおり、最後に少なくとも131万人の「移民背景の国民」がいる……。3カテゴリーの合計はおよそ400万人であり、いずれのカテゴリーについても平成の30年間を通じて大幅に増加し続けている。……日本は着実に「移民国家」への道を進み続けている。(P81)

○実習生や留学生が陥る構造的な問題は、これまで真正面から外国人労働者を受け入れてこなかった日本のサイドドア政策自体から帰結した矛盾の現れだと言える。忘れてはならないのは、その矛盾から生じるリスクを一手に引き受けてきたのが、彼らを受け入れる日本社会の側ではなく、外国人労働者たちの側であるということだ。……サイドドア政策は決して単純な「ウィンウィン」ではない。日本と発展途上国との間にある経済格差をテコにした非対称な権力関係の存在を直視し、そのうえでなお公正で透明な制度をつくることへの責任が、外国人労働者を受け入れる社会の側にはあるのだ。(P140)

○平成という時代は……外国人労働者が増え、そして非正規雇用で働く日本人労働者が増えた時代だった。……それは集団が引き続き個人の力を利用しながら、同時に個人の生の安定を保障するための負担からは自らを解き放とうとする運動である。/集団は個人を取り換え可能にすることで個人から撤退しようとする。そして、それによって個々人の人生に降りかかる「面倒ごと」から自らを解放するのだ。「自分の面倒は自分で見よ」―再び力を得たのはこの古くて新しい規範だったわけである。(P209)

○「移民」を否認する国は、「人間」を否認する国である。人間を否認する国とは、社会の中でしか生きられない私たちから社会的な支えを剥奪する国である。社会統合の対象は外国人だけではない。この国に生きるすべての人々が対象だ。……これは「彼ら」の話ではない。これは「私たち」の問題である。(P216)