とんま天狗は雲の上

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社会学史☆

 見田宗介に感銘し、大澤真幸橋爪大三郎に喜び、一方で上野千鶴子山田昌弘らの本はわかりやすく読むことができる。若手では山下祐介もいれば、古市憲寿社会学者だという。もちろん、現代社会の状況を調査し、解明し、政策指針等を示すことも社会学の一つだろうが、一方で、見田宗介大澤真幸などの仕事はやや異なる。いったい「社会学」ってどんな学問なのか?

 これについて、筆者は「社会秩序はいかにして可能か」という問いこそ、社会学の基底的な問いだとする。そして、社会学がいかに成立し、現在に至っているのかを本書を通じ、歴史的に説明していく。新書版とは言え、全部で600ページを超え、読み終えるのは大変ではないかという思いもあって、なかなか手が出なかった。しかし読んでみれば、かなりわかりやすい。実際に、講談社内で行った講義を基にして執筆したとのことだが、その故か、身近な事例や例えも多く、読みやすい。

 まず、アリストテレスの社会理論から始まって、17・18世紀の思想家、グロティウスとパスカルホッブズ、ルソーの社会契約論を整理する。しかしここまでは社会学前夜。「社会学」という言葉を発明したのは、オーギュスト・コントとされ、社会学創始者ということになっている。同様にスペンサーも社会学という言葉を使っているらしい。どうやらこのあたりが社会学の始まりのようだ。しかし、理論的にはカール・マルクスの影響が大きい。「社会学の歴史の中で、最も深く、最も広く、思考の面でも実践の面でも影響力のあった学者は、間違いなくカール・マルクスなのです」(P141)と書いている。そして、フロイトデュルケームジンメルと続き、次の大家であるマックス・ヴェーバーをしっかりと紹介している。

 第1部は「社会学の誕生」、第2部は「社会の発見」であるのに対して、第3部のタイトルは「システムと意味」。第一次大戦以降、社会学はナチの台頭などもあり、アメリカへ渡る。そして社会をシステムとして捉える「社会的行為の構造」をパーソンズが著した。一方で、オーストリアで「社会的世界の意味構成」を執筆したのがシュッツ。ただし、この本が読まれるようになったのは、1960年代以降。こうした「システムと意味」という二つの社会学が展開されていく。

 その後の展開の中で、ブルデューハーバーマスなども紹介されるが、筆者が「いまのところ、社会学理論の頂点……社会学理論の『ツインピークス』」(P606)というのが、ルーマンフーコー。それは結局、社会学の「システムと意味」の分化の果てでもあり、しかし筆者曰く「論理の形式に関しては、二人の理論は驚くほど似ているのです。」(P605)と言う。統合の兆しも垣間見えるとメイヤスーなどの新しい社会学者も紹介しつつ、本書は終わる。今後のキーワードとして「偶有性」という言葉を示して。

 ということで、網羅的であり、特に第3章はけっこう難解だが、それでも中心的な部分はしっかりと説明され、かつ歴史的に語られることで理解も進む。大学で社会学を専攻するとこうしたことを勉強しなくてはいけないのか。これはけっこう大変だ。でも面白い。今回、本書は図書館で借りて読んだが、これは書棚に一冊置いておくべき本だ。さっそく書店に買いに行こう。保存版として確保しておきたい。

 

社会学史 (講談社現代新書)

社会学史 (講談社現代新書)

 

 

○離婚した科学と哲学の、いわば中間に、社会科学は生まれた。……最初の社会科学は歴史学です。……それより少し遅れて、代表的な三つの社会科学が生まれました。……市場について調べるのが経済学。国家の論理を考えるのが政治学。そして市民社会の論理として、社会学が生まれるわけです。(P115)

○当事者の意図の結果として社会現象が起きているのではなく、当事者の意図と無関係か、あるいはそれを裏切って、社会的な水準の出来事が起きるわけです。……そういう意味で、デュルケームヴェーバーもともに、個人の意識には還元できない、それとは独立の場所に「社会」なるものを発見したのです。(P356)

○人間は、生まれながらの本性を、自分の選択と定義の産物として受け入れ、前提にしたとき、まさに「人間」になる。つまり、文化的な存在になる。そうだとすれば、人間は、その「終わってしまった洗濯」に関して、それぞれ責任を負わなくてはならないのではないでしょうか。つまり、人間は、自分がこの世界に出現したこと、この世界に存在していることに関して責任がる、というわけです。これこそが、「原罪」という観念ではないでしょうか。(P481)

ハーバーマスは、近代社会はもともと、平等な諸個人が参加し、合理的に討論する状態を目指していたし、実際……いい線まで編成されていた、と見ています。それなのに、あたかも政治と経済の論理がより重要な目的であるかのように外から介入してきて、コミュニケーション行為の対話的理性を抑圧することで、生活世界を破壊してしまった。したがって、近代社会が本来目指していた公共圏を回復し、確立することが重要である。……その意味で、近代はまだ完成していない「未完のプロジェクト」である、というのが彼がよく使う言葉です。(P529)

ハーバーマスは、何が普遍的な正義かを考えようとしていたわけです。……ルーマンは、これとは対極にある。ルーマン相対主義は、実践的には何を含意するのか。何も含意しない、というのが堪えです。社会学ができることは、事態を記述することだけで、何が善いとか、何が正しいとかいう権利はない。……私は、これを「ラディカルなアイロニズム」と呼んでいます。……が、そうだとすると、社会学は何のためにあるのか。そんな疑問も禁じえません。(P566)