とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

老後の生き方

 長年勤めた会社を定年退職して、再就職先を斡旋してもらい、働き始めてもう2年が過ぎた。再就職先で働けるのは原則65歳までだから、あと3年もない。従前の会社では住宅や建築関係の仕事をしており、関係する学会や研究グループなどから今もセミナーや講演会などの案内が届く。昨年まではこうしたイベントにも喜んで参加してきたが、最近になって、「こんなセミナーなどに参加して、知識を蓄えても何になるのだろう」という思いがふつふつと湧いてきた。でもそれを言えば、読書だって同じこと。私の都市・建築以外の読書記録はこのブログで報告しているが、それがいったい私の余生にとって何の役に立つのか。

 一緒に退職した友人から1年ほど前に「俳句をやらないか」と誘いを受けたが、断った。今さら俳句を学んで何になる。彼は50代の頃、油絵を学んでいたが、今はすっかりやめたようだ。結局は俳句も絵画も時間潰し。死ぬまでの時間をいかに過ごすかというだけのこと。

 よく、「老後に趣味を持たないといけない」と言われる。でも何のため。健康のため。充実した余生を送るため。でもどうせ死ぬんでしょ。死んでしまえば、それまでどんな生き方をしていても一緒。いや、死ぬまで楽しく生きるため、そして老後、みんなに迷惑をかけないためにも、惚けずに楽しく生きる(ふりをする)必要がある?

 逆に言うと、現役時代はどうして専門のセミナーや講演会に参加することに疑問を感じなかったのか。たぶん、そうして知識を磨くことが将来、何らかの形で自分に戻ってくると思えたから。だとしたら、たとえ短い老後であっても、自分に戻ってくると思えるような学習ならばやる気が出るのか。世間では老人大学など高齢者向けの生涯学習の機会があったりする。いや、定年後に大学院等に入学する人もいる。それもどこか空しい。

 自分へのリターンを考えるのではなく、他人の役に立ちたい。それなら死ぬまで働き続ける方がいいのか。内助の功で、ただ夫(妻?)に仕え続ける人生も悪くない。若しくは、妻(夫)のために働き続ける人生。夫(妻)が死ぬまでは、夫(妻)の役には立つ。そして夫(妻)が亡くなったら、後を追うように亡くなる夫婦もいる。他人のために生きるのならば、いっそのこと、スーパーボランティアの尾畠さんのような生き方もあるのかもしれない。65歳まであと2年半。そろそろ老後の生き方が心配になってきた。これってひょっとして「老人性うつ」の兆しなのか?