とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

路地裏で考える

 平川氏が北海道新聞やその他の媒体で執筆してきたエッセイを掲載する。そのほとんどは2017年・2018年だから、比較的最近の心情等を綴っている。このうち、第1章は社会世相や政治経済等を題材としているが、第2章は映画評論、第3章は温泉紀行となっており、第2章以降は映画などに日頃から関心を持っていない者にとっては、ほとんど読み流してしまうしかない。そして第1章も、これまで筆者が「移行期的混乱」や「21世紀の楕円幻想論」などで書いてきたことをエッセイとして書き連ねているに過ぎない。

 だが、やはりこうしたエッセイを読むとホッとする。これらエッセイの中で筆者はいつものとおり、金融資本主義や新自由主義、消費者至上主義などがいかに現代社会を壊しているかを指摘する。そして「言葉」の棄損を嘆く。「大人とは何か」について記述する。さらには大人を通り過ぎて、「老人」の意味について考察する。

 第3章は「温泉紀行」だが、第1章の終わりでは「銭湯はシェア経済の見本ではないか」と言う。面白い指摘だ。そして銭湯は路地裏にある。路地裏の庶民の生活の中にこそ本当の人間らしい暮らしがある。路地裏で死ねれば、そんなに幸せなことはない。

 

 

路地裏で考える (ちくま新書)

路地裏で考える (ちくま新書)

 

 

○言葉というものは、貨幣と似ている。/よく言われるように、貨幣が貨幣として流通しているのは、皆がそれを貨幣として流通していると信じているからである。もし、貨幣の流通性に対する信頼が失われれば、貨幣はたちまち、紙くずへと変貌する。……第二次安倍政権以降、端的に言って、言葉は重みを失い、憲法の条文も空言となった感がある。……わたしは、自分が生きている間に、これほどまでに、言葉が棄損される時代が来ることを、うかつにも予想していなかったのである。(P048)

○嘘はどこかで清算されなければならないというのが、歴史が教えていることである。/嘘は必ず、現実と辻褄が合わなくなり、その辻褄を合わせるために、嘘に嘘を重ねる他はなくなるからである。そうなれば、真実の所在以前に、言葉に対する信頼が失墜する。……嘘は、どこかで摘み取らなければ、判断力の規範を溶解させてしまう。大本営発表を嘘と知りつつ信じた結果、ロクでもない無理筋の行軍を止められなかったように。(P070)

○子どもは自分のために生きている。自分の快楽を追求することが、子どもらしい生き方である。しかし、それをどんなに洗練させて、合理的に行動することができるようになったとしても、子どもは子どものままである。子どもは誰も自分の責任として他者を引き受けたりはしない。/子どもが大人になる契機は、自ら進んでであれ、やむを得ずであれ、自分以外の人間のために生きなくてはならないという自覚を持ったときだろうと思うのである。(P092)

○銭湯というのは、赤の他人同士が裸になってひとつの湯船を共有している、シェア経済の見本のような場所ではないかと気付いた。/こんな場所って、他にあるんだろうか。日々の生活を、赤の他人と共有する場所。/かつては、共同の洗い場、共同の井戸といったものがあったが、現代はそのほとんどが、個人の所有物となった。銭湯は、いまどき数少ない共同の場なのである。(P096)

○「老い」は、若さを争う競争に敗れた結果などではなく、人間の寿命というものを完成させるための最後の段階であり、生と死を和解させるべく、生物に備わった力なのではないかとさえ思う。そのことを理解するには、金銭至上主義的な思考から離れなければならない。やせ我慢でも、「大事なのはお金じゃない」と言わないといけない。そうでなければ、「老い」の価値を見出すこともできないだろう。(P214)