とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

愛☆

 「愛」とは何か? てっきり私は、キリスト教の愛=アガペーについての本だと思っていた。しかし、「キリスト教の『愛』は……極度に理想理念化された、彼岸的な愛の概念」(P40)であり、「義務」としての愛は“真の愛”とは違うとバッサリ切り捨てる。では“真の愛”とは何か。

 その前に、一般的な「愛」、すなわち友情や性欲や恋は、いかにして「友愛」「性愛」「恋愛」になるのかを第2章から3章にかけて説明をしていく。それら一般的な「愛」は、「合一感情」と「分離的尊重」との弁証法的関係の上に「歴史的関係性」をもって「愛」となる。しかし“真の愛”はそれらが強い意志の下でさらに一段深められ、「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法的関係が必要だとする。とは言え、これらは単なる言葉遊びではない。具体的な事例―その中には、次女の海難事故の経験もある―をもって、このことを説明し、考察する。

 一方で、自身やバタイユが体験したという「内的体験」―恍惚体験―を「死の恐れ、不安から生み出された、単なる反動としてのロマン的世界像」(P14)だと言い、「恋」を「自己ロマンの投影と、それへの陶酔」(P116)とする点もなるほど納得できる。

 「愛」をむやみに持ち上げるでもなく、かと言ってもちろん卑しめるでもなく、“真の愛”を自らの生・経験を掘り下げる中で、真摯に追求していく姿勢は大いに共感が持てる。苫野氏は若干39歳ながら、既に著名な哲学者・教育学者のようだ。これまでの本も読んでみることにしよう。

 

愛 (講談社現代新書)

愛 (講談社現代新書)

 

 

○愛における一般的な「合一感情」は、“真の愛”においては「存在意味の合一」となる。それはすなわち、相手の存在によってわたしの存在意味が充溢するという確信、相手が存在しなければ、わたしの存在意味もまた十全たり得ないとする確信である。……ここに“真の愛”の一つの本質があるのだ。/しかしそれは、言うまでもなく「分離的尊重」との弁証法的関係になるものである。しかも“真の愛”においては、この「分離的尊重」は「絶対分離的尊重」と表現されなければならない。……相手は“このわたし”には決して回収され得ない存在であるとする、絶対的な分離的尊重がある。(P76)

○芸術は、絶対の「真の世界」を表現するものなどではさらさらない。そもそも、そのような真理なるものはない。絶対を騙る真理は醜い。むしろ芸術は、そのような絶対を騙る者たちに抗して、わたしたちにとっての“ほんとうの世界”を作り出すのだ。(P124)

○わたしたちは、あらゆる「愛」の通奏低音に、「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法という根本本質、そして理念的な「歴史的関係性」という本質契機を見出せることを示してきた。……友情やエロティシズムや恋は、それが「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法という愛の本質へと育て上げられた時、それぞれ「友愛」「性愛」「恋愛」と呼ばれることになるのだと。(P149)

キリスト者は、どうすれば永遠の「与える愛」を手に入れることができるのか?/答えは一つしかない。/愛が「義務」であることによってのみ。……しかしそれは、愛の本質を真に捉えた思想と言えるだろうか? 愛は本当に、絶対的な与える愛であり、それゆえ神に命じられた「義務」であると言うべきだろうか?(P157)

○「愛」もまた、「善」と同じく高度に“理念的”な概念である。それゆえわたしたちは、意志をもってだれかを愛することができるし、意志のないところに“真の愛”は成立しないとさえ言える。それはすなわち、「存在意味の合一」をわたしに与えるこの人を、しかし同時に、わたしとは絶対的に分離された存在として尊重しようとする意志である。/“真の愛”は、このような意志によってこそ真に“真の愛”になるのだ。(P207)