とんま天狗は雲の上

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官邸官僚

 安倍一強体制がいつまでも続いている背景には、今井尚哉首相秘書官ら官邸官僚の存在がある。文藝春秋の連載で続けてきた取材をもとに、彼ら官邸官僚の実態や経歴と現状などをまとめている。取り上げられる官邸官僚は、今井尚哉首相秘書官兼首相補佐官の他に、和泉洋人首相補佐官杉田和博内閣官房副長官内閣人事局長、黒川弘務東京高検検事長らである。また、彼らの活躍と並行して、財務官僚の零落や文科省の佐野太元科技局長の裏口入学事件、外務省外しと外務政策の迷走、さらにコンセッション方式に係る福田隆之前官房長官補佐官の動きなども取り上げられている。

 彼ら官邸官僚が飛び抜けて優秀な人間であることは、私自身かつて和泉洋人首相補佐官と会った(見た)時の経験からも十分理解できる。問題は、なぜ彼らはその優秀な頭脳と行動力やネットワークを安倍首相の下で発揮し続けているのか、ということである。本書では、これまでの役人生活の中での不遇をバネに、安倍晋三に尽くしているとしているが、彼らが進めてきた仕事の全てがうまく行っているわけではない。また、常に正しいわけでもない。特に不正に手を染めつつも、今もなお、官邸の中心で活躍を続けているその真意がわからない。今や、止めれば転ぶ自転車状態になっているのだろうか。今さら引くに引けない。それは安倍首相も同様か。

 そもそも安倍首相にしろ、麻生副総理や菅官房長官にしろ、日本の未来に対してどこまで責任を感じているのか。政治家だけでなく、彼ら官邸官僚もまた、目先の自己利益にしか眼中にないように見えてくる。それでいいのか。いや、日本の未来にとってではなく、彼ら自身にとって。

 一方で本書の後半では、官邸と官僚機関との溝について書かれている。「おわりに」には「安倍一強体制は、本当に盤石なんだろうか。……霞が関の不満がたまっている」(P254)という記述もある。この状態がいつまで続くのか。ポスト安倍政権には滑らかにつながっていけるのだろうか。霞が関の不満はどうやって収まるのか。外圧がなければ変われない。東京五輪の騒動を見ても、将来がひどく不安になる。

 

官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪

官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪

 

 

○今井尚哉は安倍一強を支えてきた官邸官僚の中心にいる。……そんな今井の出発点について……旧民主党代議士の福島伸享は、次のように指摘した。……「1997年、旧通産省大臣官房に『政策実務体制審議室』なる……部署ができ……ました」……今井だけでなく、柳瀬にとっても、この政策実施体制審議室時代が、「官邸官僚」としての原点といえる。昨今、霞が関の官僚を震えあがらせていると評判の「内閣人事局」構想も……ここで考案されたものだという。(P41)

○「僕は自分自身が二つの矛盾した役割を担っていると考えています。一つは、政治家の横暴から役人を守ること、もう一つは役人の怠慢から政治家を守ること。……二つの役割は僕の矜持です。……」今井尚哉の持論はいまも変わらない。(P66)

○いまや名実ともに政権を動かしているその官邸官僚たちは、決して古巣の役所のトップを走ってきたわけではない。ある種のコンプレックスをバネにここまで昇りつめてきたといえる。そんなある意味異質な官僚たちが宰相の絶大な信を得て、思いのまま権勢を振るっている。……いまや流行語となった「忖度」の原点はそこにあるのではないか。その結果、長年築かれてきた霞が関のバランスが崩れた。(P114)

○縦割り行政の弊害を打破し、霞が関の優れた人材に活躍の場を与える。もとより、内閣人事局という組織の器そのものの発想がおかしいわけではない。しかし、その新たな器を使う側に思料が足りなければ、官僚組織の底が抜け、行政を明後日の方向に導く結果を招く。いま一度、忖度という妙な言葉が生まれた背景を顧みる必要があるのではないか。(P196)

○森友・加計問題に象徴されるような欺瞞や無理筋がまかりとおり、挙句には行政機関の体をなしていないようなお粗末な失態をさらしてきた。取材を通じて強く感じたのは、それらを生む土壌となってきた官邸と官僚機関のあいだの溝であり、軋轢である。その原因がまさに、首相の取り巻きの独善にあるように感じられてならない。(P216)