とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

楽しい終末

 「科学する心」を読んで、本書も読みたいと思ったのだろうか。25年以上も前の1993年に発行された本だが、書かれていることにほとんど古さは感じない。核の暴走、中でも原子力発電所の暴走による終末を書く「核と暮らし日々」を読むと、福島原発を予知していたのかとさえ思ってしまう。

 2000年の20世紀が終わる時まで残り10年を切った1990年代、世の中はこれほどにも終末論で満ちていたのだろうか。私にとってはちょうど娘が生まれた頃で、そんな感覚はあまりないのだが、ベルリンの壁ソ連の崩壊があり、時代が変わるという意識が強かったのかもしれない。「社会主義は行き詰まったが…資本主義に用意されているのは別の種類の終わりかたである」(P194)という記述がある。今まさに現実になろうとしているのかもしれない。

 核による世界の終焉だけでなく、恐竜たちの絶滅から人類の終末を考えたり、アメリカ大陸におけるインディアンらの絶滅やクメール・ルージュによる絶望的な静粛、パンデミックによる滅亡、環境破壊による人類の終焉とその後の世界など、さまざまな切り口で人類の終末を考察していく。本書の中で様々に紹介されるSF小説も興味深い。

 人類は自らの知性と技術を倫理的に制御できず、絶滅への道を辿るべくして辿っているようだ。しかし昨今、こうした終末論は流行らなくなってしまった。人類は「今さら終末など考えても仕方ない」という境地になってしまったのか。それとも大衆の目を逸らせつつ、終末へ導こうとする者たちがいるのか。もちろん、無駄に終末論を騒いだところで、本書の最後に書かれているように「終末には意味はない」(P363)。人類がいなくなった後には静かで平和な地球が訪れるのかもしれない。しかしそれでも人間がそうした業を持った生物だということは自認しておいた方がいい。

 

楽しい終末 (中公文庫)

楽しい終末 (中公文庫)

 

 

○成長があたりまえとなっている社会というのは、言ってみればねずみ講のようなもので、最終的には帳尻が合わない日が来るのではないか。…われわれは実に多様な終末論にかこまれ、それを呼吸し、はっきり言ってしまえばそれを楽しんでいる。この数十年間、世界を導いてきた最も大きな、包括的な思潮は・・・さまざまな装いを凝らした終末論だったのではないか。(P26)

○権力指向や覇権主義は農耕がはじまって以来、人間の性格の中にはじめから組み込まれた機能である。…科学がいずれは核の秘密を発見し、倫理がそれを爆弾に仕立てることをとめ得ないのだから、ホモ・サピエンス核兵器を作るべく最初から条件づけられて世に生まれたということになる。…爆弾との共存という馬鹿げた事態は歴史的な必然だったのか。それならば、人は滅びるほかない。(P42)

○生物の進化は地史のゆっくりとした流れと見事に呼応して、今も見るような多彩な生物相を生み出した。人間はその過程を千倍の速さで走りぬけ、ブレークが効かないまま、次にどこを目指せばよいかわからなくて途方に暮れている。ホモ・サピエンスというのは自然が試しに作ってみた無意味な玩具、最初から超高速で進化してたちまち行き詰まって消えてしまう呪われた種なのだろうか。知力というのは結局は絶滅の因子でしかないのだろうか。(P141)

社会主義は行き詰まったが、資本主義は行き詰まらない。資本主義に用意されているのは別の種類の終わりかたである。生産活動そのものが異常に加速して、原料を使いはたし、環境をすっかり汚染し、購買力の担い手である消費者の生活を背後から崩してしまうことで、先進国型の資本主義は終焉を迎える。(P194)

○終末を待つのと救済を待つのは、実は同じことである。…待つというこの不思議な動詞には実体がない。先にぼくは核に関わる事故は起こるまで起こらないと書いたが、待つというのは、つまりそういうことなのだ。…来るものを救済と呼ぼうと破滅と名づけようと、何の違いもないではないか。終末には意味はない。意味というものが破綻するところが終末である。(P361)