とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

真顔ほど正直な表情はない

 電子版日経ビジネスに連載されている小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」は毎回楽しみに読んでいるのだが、先週の「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」という記事には、少しドキッとさせられた。「他人に笑顔を求めることは抑圧だ」と主張し、「今の時代にニコニコしているのは幸福だからだろうか」と問う、その内容については肯首する。そのとおりだ。だが、私自身は若い頃からニコニコし続けてきた人間だ。小田嶋氏は「いつも真顔でいることを心がけている」と言う。それは正しい。だが私は「いつもニコニコしていることを心がけて」きた。いや、「心がけてきた」のではなく、ニコニコしていれば何とかなると思って、ニコニコが「顔に貼り付いて」しまった。やはり真顔でいた方がいいのかもしれない。

 「ニコニコ顔が貼り付いてしまった」のは、母がそう教えたからだ。母は自営業の家に嫁いで、明治生まれの祖父の下、何度も泣いて過ごした日があった。それでも「いつも笑顔で」と自分に言い聞かせ、そうしていつしか祖父は亡くなり、事業は何とか軌道に乗り、幸い父は家で怒り散らすような人ではなかったため、後半生は心から笑える日々も多かったとは思うが、それでも60歳過ぎにはパーキンソン病を発症し、早く亡くなってしまった。

 「いつも笑顔で」というのは、母が自分に言い聞かせていた言葉を私にも伝えたものだとは思うが、内気で気弱で泣き虫な私は、それを金科玉条のごとく受け入れ、特に交友関係が広がる高校生になって以降は、怒りを覚えたり、悔しかったり、泣きたくなったりした時にも、笑顔でいれば何とかなると無理に笑顔を作ってきた(ように思う)(のかもしれない)。それで笑顔が「顔に貼り付いた」。

 就職をしてしばらく経った頃、30代後半の上司に「笑顔ではなく、真顔で話を聞け」と叱られたことがある。それでも上司の言葉よりも母親の言葉の方が私の中では勝っていた。真顔でいるよりも笑顔でいた方が相手は気持ちがいいはず。基本的にそう思っていた。無茶苦茶ハラが立った時はなおさら、無理にでも笑顔を作った。

 そうやって30年以上が過ぎ、ふと思った。悲しい時は泣いた方がいいんじゃないか。腹が立った時は怒った方がいいんじゃないか。でも長年の習慣は変えられない。実際、泣きたい時も、怒った時も、笑顔でいれば、何とかその場は過ぎ去っていく。しかしその後に残る心の重みは何だ! 泣きたいのに泣くのを我慢した。怒りたいのに怒るのを我慢した。そのストレスが心に重い荷物を負わせる。

 「義務で笑っているのか心から笑っているのかは、外側からは判断できない」と小田嶋氏は書く。そのとおりだ。私も長年、義務で笑ってきたが、そろそろやめてもいい頃だと思う。「真顔ほど正直な表情はない」とも言う。これもそのとおりだ。真顔でいたい。でも不正直が反映した今の社会は、真顔の人間を赦してくれないかもしれない。