とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

小箱

 幼稚園で生活する私。そこは、調理室の調理器具を除いて全てのものが小さい。冒頭、カマキリをキャラメルのおまけの箱に閉じ込めるシーンが描かれる。子どもの頃の思い出。しかし幼稚園は閉鎖されて久しい。この町には子どもがいない。産院も爆破された。死んだ子どもたちは、閉鎖された郷土史資料館にあった展示用のガラス箱の中にいる。各々のガラス箱には各々の子どもたちの成長を模した様々なモノが入れられ、人々はガラス箱が置かれた幼稚園の講堂に来ては、今は亡き子供たちと会話する。

 ここまで読んで、ふと、これは東北地方の人形供養なのでは、と気付いた。ネットで検索すると、筆者は2013年、ムカサリ絵馬を取材して、本書を着想したという。「東北に残る死後婚という風習 作家・小川洋子が出合った「ムカサリ絵馬」とは:AERA dot」で紹介されている青森県つがる市弘法寺の風習から、小さな楽器を耳に付けて、それぞれがそれぞれの音楽を聴く“一人一人の音楽会”を発想する。そしてバリトンさんとの交流。亡くなった長男が歩いた道以外は歩かない従姉。園庭の鉄棒で大車輪を回るクリーニング屋の奥さん。木片から小さな竪琴を彫り出す虫歯屋さんとその竪琴に遺髪で弦を張る元美容師さん。

 そんな少し変わった人々との交流の日々が静かに綴られていく。終盤間近、”一人一人の音楽会”で突風が吹いて人々の耳から小さな楽器をもぎ取ってしまうが、翌日には吹き飛ばされた小さな楽器を探す人々の姿が描かれる。少しずつ変化はするが、結局、変わらない日々。最後に、従姉が子どもの結婚式を挙げる。多くの人々が集まる。そしてその翌日、また新しい夫婦が新しいガラス箱を覗き込んでいる。

 結局、「ムカサリ絵馬」が表していたのは、変わらない日々と、変わっていく日々。成長する子どもと、成長しない人々。それを表現しようとしたらこんな作品になった。静かに、淡々と過ぎていく日々。小箱の中はいつまでも静謐だ。

 

小箱

小箱

 

 

○“一人一人の音楽会”で演奏される楽器はとても小さい…各々耳たぶに楽器をセットし終えた人々は、丘のあちらこちら、好きな場所に散らばってゆく。…指揮者などどこにもいないというのに、一体誰が差配するのか、楽器たちはお互い邪魔にならない間隔を保ちつつ、単調にも複雑にもなりすぎない模様を、丘全体に描き出している。(P16)

○かつて郷土史資料館で過去の時間を閉じ込めていたガラスの箱は、今では死んだ子どもの未来を保存するための箱になっている。収納されているのは、決して遺品ではない。死んだ子どもたちは箱の中の小さな庭で、成長し続ける。靴を履いて歩く練習をし、九九や漢字を覚え、お姫様のドレスを好きな色に塗って遊んでいる。(P31)

○いつの頃からだろう、人々は少しずつ過去を保存しておく情熱を失い、資料館に冷淡な態度を示すようになった。図書館のように新しい公道沿いに移転させるでもなく、産院のように爆破するでもなく、老朽化するままに放置し、いつとはなしに閉鎖してしまった。遺物を再び過去へ置き去りにする方法を、他に思いつかなかったのかもしれない。(P96)

○漆黒の手紙、解読、清書。二人の間で執り行われる手順に変わりはなかった。恋人の沈んだ湖は底なしだった。ペンをくわえ、首をすくめて腰を折り曲げ、おまけの箱に閉じ込められたカマキリのように体の縮んだ私は、自由自在、どこまでも奥深く漂うことができた。その漆黒の湖から愛の言葉をすくい上げ、口にくわえたペンで清書し、子どもたちのいない園庭を巡りながら朗読する。時々立ち止まり、遊具を眺め、二人で月を見上げる。バリトンさんと私は、繰り返し同じやり方で愛し合う。(P175)