とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

薩摩藩の思惑

 毎週、「英雄たちの選択」を楽しく観ている。もう1ヶ月程前だが、「幕末の”ラストエンペラー”~孝明天皇 維新への道を決めた選択」を放送していた。ちなみに私は孝明天皇の暗殺説なるものも聞いたことがなかったし、もちろん大和行幸計画も知らなかった。そもそも学校で習う日本史は記憶科目としてもっとも苦手な科目の一つだったし、理系受験の私にとっては、高校3年の後半に付け焼刃で勉強しただけだ。年表に沿った事跡はかろうじて覚えていても、なぜそういうことが起こったのかという点まで踏み込んで理解できていない。特に幕末の歴史は、幕府と朝廷、薩摩・長州やその他の雄藩が入れ替わり立ち替わり現れて、いったい全体、何がどうなっているのかわからない。

 中でも薩摩藩の動きはなかなかうまく理解できなかった。蛤御門の変会津藩とともに長州藩の襲撃を追い返した薩摩藩だが、その後は長州藩と手を組んで倒幕に動いた。なぜそんな180度真逆の方針転換をすることになったのか。それとも実は真逆ではないのか。これまでさっぱりわからなかった。

 それで今回、この放送を見ていたら、どうやら薩摩藩の目的は「幕府か朝廷か、倒幕か否か」といった点にはなく、「迫りくる外国の技術力や軍事力を前にして、薩摩藩をいかに守るか」という点にあったのではないかということに気付いた。つまり現実的な対応を模索していたのではないかということ。

 幕末の時点で日本を治めているのは幕府であり、一方で朝廷という象徴的な権力体もあるという状況を踏まえれば、公武合体というのは現実的な方策であり、闇雲な攘夷論に対しては反対する立場になる。それ故の8月18日の政変であり、蛤御門の変であった。この間、篤姫を13代将軍家定に嫁がせてもいる。

 しかし、朝廷は孝明天皇攘夷論を唱えてまとまらず、幕府も開国方針を持ちつつも朝廷との調整に足を引っ張られ、身動きが取れない。そうした状況下での長州征伐の失敗、また長州藩内の変化も踏まえての薩長同盟締結となったのではないか。もちろん薩長同盟に至るまでには坂本龍馬を始めとする人々の関わりもあっただろうし、その他の複雑な政局の動きも影響しているだろう。幕府、朝廷、そして各雄藩の中でも多様な意見が噴出し、それぞれの事情で思わぬ方向に動かざるを得なかったこともあっただろう。

 その中でも、私にとっては薩摩藩の動きは理解しがたかったが、先日の放送を見てようやく、私なりにこの程度まで理解をした。もっとも、多くの歴史家や歴史好きな人々からすれば当たり前の結論かもしれないし、浅薄な理解だと笑われるかもしれない。でも、個人的には少しすっきりした気分なので、ここに投稿する。複雑な物事を理解するためには、大枠でのレッテル張りは有効ではないか。すなわち、薩摩藩は「現実的な対応を模索していた」という理解である。