とんま天狗は雲の上

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心にとって時間とは何か

 「時間」とは何だろう。本書では、それに敢えて「心にとって」と付け加えられている。「心とは何か」と問い掛けたくなるが、それはたぶん主観的に我々が時間をどう捉えているか、という意味合いだと思われる。このため、本書では章ごとに、<知覚>、<自由>、<記憶>、<自殺>、<SF>、<責任>、<因果>、<不死>というテーマを立て、それらから時間とは何かを考えていく。

 しかし、正直言って、難しい。しかも、筆者も書いているとおり、「時間」を直接問い詰めるのではなく、それぞれのテーマから見た「時間」の現れについて考察を進めていく。そうして「輪郭」を描き込む中で、おぼろげながら「時間」の真の姿が見えてくる、だろうか。

 いや、正直、読み終えてなお、さっぱり見えてこない。「今」という瞬間さえも捉えるのは難しく、「死後の時間」と言われてはさらにわからなくなる。「時間」とは因果関係の流れと言っていいのだろうか。だが、因果関係を見出す「私」は本当に「私」なのか。たぶんこのように自分の言葉で書きだした時、既に筆者の問題意識、哲学的考察から抜け落ちているのだろう。

 要するに、局所的には面白いが、ひとつながりのまとまりとしては曖昧模糊。そして全体的には意味不明。それでも何とか追いかけて読み終えた。読み終えたという事実だけが私の中に残っている。「時間」とは何か。それは結局、生きる人間にとって永久に解けない謎であり、概念であり、知覚や認識なのだろう。これは時間の無駄だったのか。いや、無駄な時間というものはない。そもそも時間を無駄ということ自体が何を意味しているのか。考え出すとキリがない。

 

心にとって時間とは何か (講談社現代新書)

心にとって時間とは何か (講談社現代新書)

 

 

○人間は一瞬の物理的世界をスライスするようにして知覚するのではなく、ある程度の時間的幅をもった物理的世界の情報を脳で編集したうえで知覚しており、あくまでも主観的には、過去や未来が、すなわち、すでに体験した現象やまだ体験していない現象が混ざり込むようにして「今」は体験されている。(P43)

○ヒトの身体は…ひとまとまりの空間領域にさまざまな機能を詰め込んでおり、知覚情報の入力も…身体運動も……、近接した場所で実行する。それゆえ、その空間領域は…さまざまな機能の因果的な結節点となっており…その空間領域を一個人の領域とする。/論理的には、目や耳などの入力器官と、その入力情報を処理する脳、さらに手や足などの身体部位が…世界に散在していることは可能である。…このとき、ある人物を一個人たらしめているのは、空間領域のまとまりではなく、因果関係のまとまりだ。(P201)

○私の死後にも時間は流れ、「今」は移り行くのだとしよう。このとき、現在の死者としての私は、刻々と、新たな死者としての私にその座を取って代わられる。もちろん、すでに消えてしまった私は、ある意味では何も変化しない。だが、私が死者であることは、私の心がいまもなお途切れていることに依拠しており、それはつまり、刻々と更新され続ける暫定的な事実である―。(P230)