とんま天狗は雲の上

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グローバル定常型社会

 広井良典氏の岩波新書の著作「定常型社会」は10年ほど前に読み、非常に感銘した記憶がある。本書はその当時の考察をさらに進め、グローバル化時代における定常型社会の有り様について、(1)数十年の視座で先進国の視点から、(2)数百年の視座で後進国も含めた全世界的な視点で、(3)数千年から数億年の視座で人類・文明という視点から、それぞれ考察を進め、最後の第4章で「ローカルからグローバルへ」の全体構造として示す。
 このとき対になるいくつかのキーワードがある。それが「公−共−私」であり、「ローカル−ナショナル−リージョナル−グローバル」であり、「環境−福祉−経済」である。また「地球−生命−人間」や「狩猟・採集段階−農業段階−産業化段階」という時代認識と、その各段階において「拡大期−定常期」を繰り返してきたという理解も重要である。
 経済優先の現代において、貧困とは何か、幸福とは何かと問うとき、生活の外部化が賃金を必要とし、貧困を生み出すことに気づく。労働生産性が上がれば上がるほど、職は希少になり、失業問題が発生するというアナロジーに気づく。既に現代は産業化社会の拡大期を終え、定常期を迎えつつある。そこでは、労働時間を少なくする労働生産性の高い労働よりも、労働時間を長く要する労働集約的生産システムが求められる。労働生産性よりも環境効率性が重要となる。
 全体として使われる言葉を書き出せば難しいが、一つ一つ使われている文章を読めば、非常に当たり前のことを言っていることに気づく。結論を言えば、筆者は「地域自給プラス再分配モデル」の社会づくりをめざすべきだと主張する。それは環境と福祉の統合をめざす方向であるが、そのためには自然環境や風土と一体となったローカルなコミュニティを出発点に、補完的にグローバル・ミニマムの対応を考えていくことが必要と言う。
 世界同時不況に伴い、世界の経済体制が大きく変動しようとしている現在、広井氏のこうした議論こそが政治の局面においても種々議論されるべきだと思うが、目先の経済対策に追われる現在の日本の状況は、情けないの一語に尽きる。新しい定常時代は既に始まっているのだ。

グローバル定常型社会―地球社会の理論のために

グローバル定常型社会―地球社会の理論のために

●「経済」というものが富の生産とその効率性に関わるものであるのに対して、「福祉」はそうした富の分配の公平性に関わるものであり、「環境」は富(あるいは人間の経済活動)の総量ないし規模の持続可能性に関わるものである。 (P21)
労働生産性が上昇した分については、これまでと同じ時間働き続ければ結果的に生産過剰や失業を招くので、むしろそのぶん賃労働時間を減らし、かわりに家族やコミュニティ、自然等に関わる時期にあてるということである。(P40)
●労働、土地、貨幣がそれぞれ商品化された場合に、その”値段”がそれぞれ「賃金」、「地代」、「利子」として現れるのである。労働について見れば、賃金は、市場経済が普及した社会においてはそのぶん、つまり生活を営んでいくにあたって貨幣を通じて購入すべきものの割合が増えるぶんだけ、高くならなければならない。(P101)
●私たちが迎えつつあるこれからの定常化の時代が、ここで論じてきたように人類史の中の「拡大−定常」のサイクルの三番目にあたるものであり、またそれが産業化段階の後期として位置づけられるものだとすれば、それは新しい局面での「自然資源集約的生産システム」から「労働集約的生産システム」への移行という性格を持っていることになる。(P135)
●ここでかりに「時間的多様性」と「空間的多様性」という言葉を使うとすれば、”変化”あるいは”進歩”とはすなわち「時間的多様性」のことであり、市場化以降の時代においてはこれへの関心が支配的だった。・・・定常化の時代においては、むしろ世界や各地域の(自然や文化や場所等々の)「空間的多様性」や固有性に人々の関心が向かい、またそうした多様性の「豊かさ」を人々が享受することになるのである。(P162)