とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

若者よ、マルクスを読もう

 先の読書感想で、内田本は「たまに読むと精神を整え、心によく効く。人生のためのビタミン剤のようだ」と書いたのに、すぐに続いてこの本を読んでしまった。図書館で予約したら、一緒に届いてしまったのでしょうがない。今週中に返却しなくちゃいけない。
 とは言っても、こちらは石川康宏氏がマルクスの作品を解説し、内田氏がそれに答えるという往復書簡の形で構成されており、ブログからのコンピ本とはちょっと違う。もっとも内田氏のマルクス評はやはりブログで書かれていたことと同じだけども。
 「若者よ、マルクスを読もう」というタイトルである。しかも「まえがき」に「高校生向け」と書かれている。50を過ぎたオヤジが読む本ではないのではないか、という思いが本書を手に取るのをためらわせたが、はっきり言って、これをスラスラと読める高校生はまずいない。内田氏や石川氏のような俊才であれば高校生時代に読んだかもしれないが、私には無理。
 私もマルクスは高校生か大学生のころに「共産党宣言」を読んだ覚えがあるが、それ以上は次の本に手が伸びなかった。共産主義に対する悪いイメージが頭にこびりついていたこともある。私は石川氏と同年代の、全共闘後の世代である。だから、学生運動には批判的だったし、ノンポリこそ主流だった。それでも学生運動の名残はあったし、だからこそマルクスを読んでいると知れたらどう思われるか。そういう時代だった。そういう意味では、石川氏がマルクスを読み込んだというのは尊敬に値する。もっとも文系と理系では違うのかもしれないが・・・。
 で、本書である。「20歳代の模索と情熱」という副題が付けられている。マルクスが20代の頃に書かれた5つの著作、「共産党宣言」「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」「経済学・哲学草稿」「ドイツ・イデオロギー」について、まず石川氏が1作ごとにその概要や構成、執筆の背景などを解説し、これを受けて内田氏がマルクスの凄さ、マルクス本の面白さを語るといった形で進行する。これが4回(「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」はまとめて解説・紹介)。全部で8編の書簡が掲載されている。
 内容は、特に石川氏の部分が、マルクスの原文を挙げて、これを解題するという形で書かれているため、かなり難しい。特にマルクスが難しい。普通の高校生だとイヤになってしまうくらい難しい。でも大人が読むと、石川氏と内田氏の解題が軽妙で面白い。ふたりの読み込みの違いが面白い。石川氏がまずざっと掘り込んで、その後で内田氏が深掘りする。だから内田氏の方が面白いのはある意味当たり前。ちょっとずるい。でもしょうがない。その順番だからこそわかるだろうか。
 ユダヤ人問題について、内田氏が異論を掲げ、石川氏が反論するのも面白い。そして「これが面白い」と自ら書かれては読者としても「はい、そうですね」と言わざるを得ない。その軽さがイイ。
 本書は副題のとおり、まず20歳代を取り上げたに過ぎない。続編がある予定だそうだ。これは楽しみ。マルクスを読もうかと思ったが、このシリーズを読むだけで十分楽しめそう。というか、50過ぎのオヤジにはその程度にしておいた方が楽しめそう(高校生・大学生はマルクスの原本を読んだ方がよいと思う)。続編を期待しています。

●真の革命宣言は「憎しみ」や「破壊」を称揚する言葉ではなく、「友愛」の言葉で終わらなければならない。このきわめて人間的な構えにおいて、マルクスは19世紀、20世紀に無数の凡庸な革命家たちに卓越しているとぼくは思っています。(P49)
マルクスは人間が自己利益の追求を最優先することを止めて、自分の幸福と利益を気づかうのと同じ熱意をもって隣人の幸福と利益を気づかう「類的存在」になることを「人間解放の完遂」だと考えました。ぼくもこの考え方は(困難な目標ではあると思いますが)、正しいと思います。ぼく自身もできることならこの方向で、「類的存在」たるべく、できる範囲でのささやかな努力をしたいと思っております(ほんとうに)。(P92)
●人間は社会的であるときに人間的であり、人間的であるときに社会的である。その理路をマルクスはこんなふうに書いています。/「私は人間として活動しているのであるから社会的である。……したがって、私が自分からなにかをつくるにしても、それは私は社会のためにつくるのであり、しかも、私がひとりの社会的な存在であることを意識しながらつくるのである」/自己利益を排他的に追求する人間は社会的ではない。社会的ではない人間は人間ではない。マルクスはそう言っている。(P159)
共産主義は、理想の国(ユートピア)の手前勝手な設計図から生まれるものではなく、資本主義がもつ問題をひとつひとつ解決していったその先に、結果として形をさだめるものとなる・・・。未来は、人間が社会に自由に押しつけることができるものではなく、いまある社会の内から生まれ出てくるものだというわけです。(P185)