とんま天狗は雲の上

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社会主義への挑戦−シリーズ中国近現代史4

 日中戦争終了後の1945年から文化大革命が行われた1971年までの中国を取り上げる。
 終戦後、すんなり共産党政権が樹立されたわけではなく、当初は国民政府が政権を担う方向で進んでいたが、経済政策の失敗等があり、新民主主義という他の政治勢力と連携する形で、1949年に中国人民共和国が成立した。
 その前の1947年に施行された47年憲法の評価が高い。しかしその後中国は民主国家の道を歩まずに、共産党独裁政権となっていく。ソ連からの重圧、台湾問題、そして朝鮮戦争外交問題が顕在化するなかで、国民経済の復興をめざすべく、三反・五反運動が始まり、1954年憲法により社会主義化が強行された。
 ところが1956年に至り、ソ連スターリン批判などの政治状況が変化する中で、百家争鳴が呼び掛けられ、言論の自由、思想の自由への動きが現れる。と今度は、毛沢東が先頭に立ち、反「右派」闘争が開始される。さらに国際的・経済的に孤立していくなかで、虚妄の高度成長計画による急進的社会主義路線「大躍進」が進められた。1958年5月共産党第8回大会第2回会議の決定である。
 ところがこれにより中国経済は壊滅的な傷を負う。そして市場経済を一部復活させる調整政策が取られ、次第に経済成長を取り戻してくる。と、もう一度急進的社会主義の復活が頭をもたげてくる。1965年から始まった「プロレタリア文化大革命」と称される政治運動は、戦後に生まれた団塊世代の不満を吸収し代表する形で盛り上がり、毛沢東が自己覇権の道具として積極的に推進する。
 しかし、文革運動は毛らが制御できる状況を超えて暴走を始める。経済的にも韓国や台湾などに大きく水を開けられる事態となった。こうした状況を変えていくのが、ソ連との確執の反動で進められた日米への接近である。
 このように戦後中国の歴史は、毛沢東がめざす妄想的な急進的社会主義と現実的な経済発展を進める調整主義との間で、経済や政治思想のみならず、文化や学問、科学技術までは大きく揺れ動き翻弄される歴史であった。
 私が知っている中国は文化大革命以降であり、その後、現在の開発独裁体制にどうやって進んでいったのかは次巻で描かれるはずである。しかしこのあまりに激しい社会変動の中に、現在につながるあらゆる種が内包されていることに気付く。歴史とはかくもダイナミックで不定形で制御困難なものなのか。その壮大さに驚く。

社会主義への挑戦 1945-1971〈シリーズ 中国近現代史 4〉 (岩波新書)

社会主義への挑戦 1945-1971〈シリーズ 中国近現代史 4〉 (岩波新書)

●47年憲法をまったく過去の存在であるかのように考えるのは適切ではない。1987年に戒厳令が撤廃された後、急速に進んだ台湾の民主化は、法制上、この憲法によって導かれたものであった。今後、大陸において民主政治が求められるようになった時も、49年革命によって一度は過去のものになったかにみえる47年憲法の意味が、改めて振り返られる日が来ることであろう。(P25)
●経済政策に失敗し政治的孤立を深めていた戦後国民政府は、国際環境の激変に翻弄され、外交面でも十分な成果が得られず、さらにその存立の基盤を弱めていくことになった。/1948年から49年にかけ、共産党は国民政府に対する軍事的勝利を背景に地域政権の樹立を進めていく。・・・確実に軍事的政治的支配地域を広げていった共産党は、1949年10月1日、国民党政権打倒に向けて連携を強めてきた他の政治勢力とともに、北京において中華人民共和国の成立を宣言する(P39)
●反「右派」闘争の結果、中央、地方を問わずさまざまな分野において多くの優れた専門家が地位を失ったことは、その後の人民共和国の行政能力を著しく弱体化させ、「大躍進」期のように現実的な裏づけを欠いた経済政策が施行される条件を形成した。優秀な科学技術者、文学者、芸術家、思想家などが口を塞がれたことも大きな打撃であった。(P90)
●毛がめざす急進的社会主義路線を指示する勢力は少なく、党内の多数派は経済調整政策の方向性を支持していた。そうした中にあって、毛の影響力を直接行使できる数少ない領域の一つが、夫人の江青が人脈をもつ党の文化宣伝関係部門だった。かくして、中国共産党指導部内部の抗争が「文化革命」の装いをまとって繰り広げられることになった。/また上述のような国際環境の下、・・・中国の指導部が一段と孤立感を強めていたことにも注意が払われなければならない。難局打開に向け強いリーダーシップを確立しなければならないとの切迫した思いは、苛烈な政治闘争が展開される背景になった。(P154)
●各地の混乱の背景には、文革によって従来の社会秩序が破壊されるなか、それまで抑圧されていたさまざまな社会層の不満が噴出したという面があった。アメリカのベビーブーマー、日本の団塊世代に当たる中国の紅衛兵世代は、中国経済が低迷を続けるなか、高校や中学を卒業してもなかなか定職に就けず、鬱屈たる思いを抱えるようになっていた。激増しつつあった戦後生まれの若手の失業者ないしは半失業者こそ、紅衛兵を称した学生や文革派労働者たちの主たる供給源にほかならない。(P159)