とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

雪の練習生

 高橋源一郎『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』を読んで、この小説を知った。シロクマが主人公の小説だということは読む前から知っていた。だが読み始めてみると、あまりの擬人ぶりに主人公の「わたし」が誰なのか、しばらく分からなかった。

●四つん這いになって肛門を天に向かって無防備に突き出していても、襲われる危険なんて感じなかった。それどころか、宇宙が全部、自分の肛門の中に吸い込まれていくような気がした。(P7) 

 という書き出しから読者の胸ぐらを力強く掴み、引き込んでいく。
 母親の育児放棄により人工飼育で育てられ、ドイツで大人気となったシロクマ「クヌート」。この実話をベースに、その母親のトスカ、そしてその母の「わたし」を主人公とする3編の中編を連ねる。順番は祖母から。第1部は、20世紀半ばのソ連を舞台に、サーカスのスターにして自伝作家であるシロクマの祖母が語る「祖母の退化論」。続いて、サーカスの猛獣使いのウルズラとシロクマのトスカとの交流を描く「死の接吻」、最後はクヌートの視点でクヌート自身の成長を描く「北極を想う日々」の3編から成る。
 中でも面白いのは「祖母の退化論」。シロクマが自伝を書き評判になるところからして奇想天外だが、出版編集者とのおかしな交流やシロクマの夫との結婚生活と亡命など、時間と場所が自由自在に展開し、「わたし」の心を立体的に描きだす。
 第2部の「死の接吻」は女性猛獣使いのウルズラの視点から東ドイツの状況やサーカスでの生活を描く。
どうやらウルズラと交流のあるシロクマ・トスカは何代もいるらしい。そして第3部「北極を想う日々」では小熊クヌートによる人間観察が面白い。クヌートは新聞を読み、飼育係マティアスの死を知り、マレーグマや狼らと会話を交わす。
 実際のクヌートは、大人気の中、2011年に突然亡くなるのだが、この小説はそれ以前に書かれており、クヌートを巡る訴訟などの実話もクヌートの視点から描かれる。
 想像力が自由に時空を駆け巡り、読者の眼も人間を離れてシロクマと同化する。少しのんきで、でも情感豊かで、ちょっぴりしんみりして、ハラハラして、ワクワクしてくる。不思議で楽しい多和田ワールドに引き込まれる。

雪の練習生

雪の練習生

●「寒い」という形容詞は美しい。寒さを得るためなら、どんな犠牲を払ったっていいとさえ思う。凍りつくような美しさ、ぞっとするような楽しさ、寒気のする真実、ひやっとさせる危険な芸当、あおざめる才能、冷たく磨かれた理性。寒さは豊かさだ。(P48)
●人間は痩せているくせに動きは鈍く、大事な時に何度もまばたきをするので敵が見えない。どうでもいい時はせかせかしているくせに、大事な戦いの時には動きが遅い。・・・人間ほど愚かな動物を何のために誰が作ったのか。人間が神様の似姿だなどと言う人がいるが、それは神様に対して大変失礼である。神様はどちらかというと人間よりも熊に似ていたということを今でも覚えている民族が北方には点在しているそうだ。(P67)
●狩猟本能っていうのがよく分からないの。」「昔は生き残るのに必要だったある行動が意味を失ってからも動きだけが残っている、そういうことじゃないかしら。人間って、そういう動きの集まりに過ぎないのかもしれない。生きるために本当に必要な動きはもう分からなくなっていて、記憶の残骸みたいな身振りばかりが残ってる。」(P139)
●どうして哺乳類は生まれてすぐにミルクがなければ死んでしまうようにできているのか、それを不思議に思った。・・・もう一つとても不思議なのは、牝しか乳が出ないように作られているということだ。もしもラルスも乳を出すことができたら状況は違っていたのではないか。一切の責任がトスカの肩にかかってしまうのは、母親しか赤ん坊にミルクを与えられないような身体のつくりになっているからだ。(P229)