とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場の文体論

 内田樹神戸女学院大学での最後の講義全14講を書き起こし推敲したもの。講義名は「クリエイティブ・ライティング」。第1講で

●数十年にわたり賢愚とりまぜ腐るほどさまざまな文章を読み、また自分も大量の文章を書いてきた結果、僕は「書く」ということの本質は「読み手に対する敬意」に帰着するという結論に達しました。それは実践的に言うと、「情理を尽くして語る」ということになります。(P17)

 と書き、最後の第14講では

●「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある。できるだけ多くの人に、できるだけ正確に、自分が言いたいこのことを伝えたい。その必死さが言葉を駆動する。思いがけない射程まで言葉を届かせる。(P285)

 と書かれている。いかに相手に伝わる文章を書くか。それは「伝えたい」という切迫感を持って伝えること。言ってしまえば当たり前のこのことを伝えるためにこの講義があり、本書がある。
 のかもしれない。でもそれでは2講で済んでしまう。この真実に挟まれて、ソシュール言語学、バルトのエクリチュール概念、ラカンの「鏡像」理論、レヴィナスユダヤ教が語られる。ただの学問紹介ではなく、それらをかみ砕いて卑近な事例や例えをふんだんに盛り込み、いかに伝わる文章を書くか、学問とは何か、何を伝えるのか、我々は何を背負っているのかなど、大きくは「生きることはどういうことか」につながる内田哲学が語られる。
 もちろんこれまでもブログに書かれてきたこと、多くの書物で語ってきたことの繰り返しがほとんどである。いや、本書オリジナルってどこか正直よくわからないが、それでも「確かにそうだ」と頷いてしまう。
 内田樹は既に大学を退職し、道場を営みつつ、ブログやその他の媒体で自己主張を披露している。今後はこうした形でまとまった「街場」シリーズは書かれないのかもしれない。それでもあまりに混沌とし、自国のことだけ、いや自分のことだけを考えている人々が跋扈する昨今の世情に対して、びしっと鞭を入れてほしい。我々は日本の檻に囲まれていることを自覚しつつ、世界を見下ろす視座から自らの行動を決めていかなければならない。内田先生には引き続き、そうした視座からの適切な指南をしてほしい。もちろん自分のことは自分で考え自分で決定していくしかないのだけれど。

街場の文体論

街場の文体論

●つまり、僕たちが文を書いているときに、「今書いている文字」が「これから書かれる文字」を導き出すというよりはむしろ、「これから書かれるはずの文字」が「今書かれている文字」を呼び起こしている。いわば弓で遠くの的を射るような仕方で言葉は連なっている。(P93)
●日本では「学問の質」とは別に、その学的知見が「どれくらい広い範囲に共有されるか」ということが問題にされます。せっかく世界の成り立ちや人間のありようについて価値ある知見が得られたのなら、できるだけ多くの人々に共有されるべきだという考え方を僕たちがするからです。でも、これは世界標準的には「常識」ではありません。僕はこの仕事を「ブリッジする」というふうに呼んでいます。「象牙の塔」と日常生活を「架橋」すること。この仕事をそれなりに評価する文化的な文脈が日本にはある。(P138)
●「あなたはそこにいる。そして、あなたがそこにいることを私は願っている」一神教信仰の起源にある主の言葉は、つきつめて言うと、この一文に凝集されると僕は思います。・・・神は全能なのですが、「私は神を信じる」という言葉を被造物に言わせることだけはできません。神の全能性は、「神の全能を、誰にも強制されることなしに認めるほどに霊的に成熟した被造物を創造した」ということでのみ証明されるからです。(P178)
●「鏡に映っているもの」は本質的に他者です。自分ではない。・・・そこに現出した、自分の身体感覚とぴたりと同期する像を「あれが私だ」と思えば、自我は成立する。/だから自我というのは、そもそものはじめから一種の虚像なんです。・・・でも、自分の外部にある鏡像と同期したことで、強烈な快感がもたらされた。「他者と同期すると快感が得られる」という起源的な体験がこのとき刷り込まれる。これが人間の成長のもっとも基本的なラインをかたちづくってゆく。(P226)