とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

フクシマの正義

 『「フクシマ」論』以降、各種の雑誌等に寄稿し、また対談した記事を集めたもの。早いもので2011年6月から2012年12月まで。『「フクシマ」論』の現実を見つめた論考をベースに、その背景にあるもの、周辺の事柄、その先に見通しているものなど、社会学者・開沼博の視座と視界が明らかにされていく。
 現在を、「宗教・呪術の時代」から「近代=科学の時代」を経て、「再『宗教』化の時代」と呼ぶ。だが、その再「宗教」に溺れることなく、複数の宗教が併存する状況を前提に、冷静に社会を見つめ、まさに「現在」から次への一歩を進めなくてはならない。その点で、自ら強固な基盤の上に居座り続けながら、徒に「希望」を振りかざし「模範解答」を披露する「知識人」を痛切に批判する。それこそがまさに「中央/地方」「支配/被支配」の関係そのままの構図だと。そして言う。

●「希望」などない。そこに未来はある。(P223)

 右肩上がりの時代にあったような「希望」はもはや空しい。「未来」は「現在」の延長線上にあるが、そこに「希望」が寄り添っているとは限らない。かつてのような「希望」がもはや存在しない「未来」を生きていく。希望はなくとも「幸福」のある社会。
 第3部の対談集では、古市憲寿大野更紗のような同年代の若者との対談も収められている。生まれた時から右肩下がりだった世代が今後どんな未来を見つけ、どのような社会を作っていくのか。筆者が言うように数十年かけて強固に凝結した社会は容易には解体・変質しないだろう。彼らの描く「未来」に期待したい。現代社会の強固化に心ならずも協力し、そのことに居心地の悪さを感じている我々の世代にとっても、「未来」は同様にやって来るから。

フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い

フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い

●今、社会に存在する「善意の分断」は科学的合理性が社会を支えきれなくなった状況の上にできている。それは前近代=宗教・呪術の時代、近代=科学の時代、その後に到来した”再「宗教」化”の中でできたものに他ならない。・・・社会の「善意の分断」を再度つなぎ合わせるために今求められるのは、自らの考えが唯一・最上のものではないことを自覚し、社会に複数の「信心」が存在する状況を認め、その前提で議論を始めることだ。自らの考えに合わぬ者を、蔑み罵り責任をなすりつける「宗教紛争」の先には、「善意の分断」の中で現状の課題が忘却され、坦々と維持される未来が待つだけだ。(P29)
●今求められているのは、短絡的に作られた「敵」でも、薄っぺらい「希望」でもない。なぜ自分が、自分たちの生きる社会が、これまでその「悪」とされるものを生み出し温存してきてしまったのか、そして、これからいかに自分の中の「悪」と向き合うのか、冷静に真摯に考えることに他ならない。「変わる変わる詐欺」を繰り返さないために。(P39)
●「内へのコロナイゼーション」において、結果として、地方は一見、近代化を進めたように見える。しかし、内実を見れば、例えば何らかのリスクを背負わされたり、経済的な豊かさを達成しているようでいて、実際にはモノカルチャー経済的な構造の中で自由に意思決定できない状態にあったりする。「外へのコロナイゼーション」ほど可視的ではないにしても、それと同様か、可視的でないが故により深刻とも言える。中央/地方間のまさに「支配/被支配を前提とした宗主国/植民地関係」に向かっていると言ってよいだろう。(P72)
●「右肩上がり」の時代は終わった。しかし、それは、人々が不幸になることには直結しない。むしろ。「右肩下がり」の時代とは、表面的に小ぎれいに整えられ、不自由さや不快さを感じる機会が抹消し尽くされた社会の中で、人々が「幸福」な日常を刻む時代に他ならない。・・・「非日常」を見ながら「希望」を語って出された「模範解答」はいらない。それ自体は悪いものではないのかもしれないが、しかし、それによって見えなくなるものをこそ明確に意識しなければならない。希望の光によって見えなくなるような陰にこそ目を向けなければならない。(P222)
社会学とは・・・近代社会とは何か、近代社会化する社会とは何かを研究する学問だとも言えるでしょう。近代化を具体的に言い換えれば、一つは経済成長であって、ずっと右肩上がりで来たのが西欧や日本の近代化であった。しかしもはや右肩を上げようとしても、上がらなくなっている。・・・このふわふわ感の中に社会があり、歪みも出てきている。これまで作られてきた枠組みは右肩上がりを前提をしていたから、その視点から切ろうとしても切れないものも出てきている。・・・近代化を終えた社会、成長を終えた社会とも言えるような「これまでとは違ったアプローチを要する社会」を認識したうえで、改めてそれを対象化・客観化して研究を進めていく必要があるんだと思います。(P371)