とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

遠い山なみの光

 カズオ・イシグロの略歴を知らない人が初めてこの小説を読んだら、戦後の昭和30年代までに書かれた私小説かと思うかもしれない。だがこれは英国人が英語で書いた小説なのだ。訳者の小野寺健がうまいのかもしれないが、まずはイギリスで原作が王立文学協会賞を受賞したのである。我々は戦後の時代と価値観の変化を日本独自のものと考えがちだが、たぶんそれはイギリスにおいても同じで、筆者がブッカー賞を受賞した作品「日の名残り」では戦前に外交家として活躍した貴族の戦後の取り残された思いを描いている。
 本書も同様に、戦前の価値観からの変化になじめず、若者に取り残されていく老教師「緒方さん」の姿や新しい時代の変化に戸惑いながらも模索する女たちの生き方を描いていく。しかもそれらはけっしてはっきりと描かれることなく、微妙にすれ違い、思惑が交差する会話を通じて表現される。主人公の悦子も、アメリカ人の愛人を追いかける佐知子と批判的に交際した過去を回顧しつつ、現在では佐知子と同様、イギリス人と再婚して渡英し、さらに長女を自殺で失った自分をあの時の佐知子と重ね合わせるのだ。
 原爆で多くの人が亡くなって数年後の長崎の夏を時間はゆったり過ぎていく。そしてロンドンからそれほど遠くない郊外の田舎町に住む母親と娘の下にも。時間が複数の過去と現在を往復し、薄闇が次第に明けていくように全体像が明らかになっていく。原題の「A PALE VIEW OF HILLS」の「HILL」が複数形になっているのは、イギリスの牧草地の丘の連なりと長崎の稲佐山や対岸の山々を示唆しているのだろうか。薄闇の中から次第に明けゆく多くの時代の山なみを指しているのだろうと私には感じる。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

●「わたし、小さな女の子の夢を見たのよ。昨日わたしたちが見た子。公園に小さな女の子がいたでしょう」・・・あの夢のことを始めて見たとたんにニキに話したのは、すでにその時から、この夢が単純ではないことに気がついていたせいかもしれない。・・・この夢は公園で見た小さな女の子などよりも、その前に二日間に思い出していた佐知子に関係があるのではないかと、はじめから疑っていたのにちがいないのである。(P76)
●わたしあの人に会うたびに、自分もこういう風にならなくちゃいけない、将来に希望を持たなくちゃいけないって思うの。だって、どう考えてもあの人の失ったもののほうが、わたしより大きいんですもの。・・・「ほんとうにそうよ、悦子さん。過去ばかりふりかえっちゃだめね。わたしも戦争でめちゃめちゃになったけど、まだ娘がいるんですもの。あなたの言うとおり、将来に希望を持たなくちゃだめね」(P156)
●わたしは以前からこの像の格好がぶざまな気がして、原爆が落ちた日のことやそのあとの恐怖の数日とはどうしても結びつかなかった。遠くから見ると、まるで交通整理をしている警官の姿のようで、こっけいにさえ思えた。・・・長崎の人たちも、・・・だいたいはわたしと同じような気持ちではないかと思っていた。(P194)
●われわれが負けたのは大砲や戦車が足りなかったからで、国民が臆病だったからでも、社会が浅薄だったからでもない。重夫くん、きみにはぼくらのような人間がどんなに努力したかわかっていない。・・・ぼくらは心から国のことを思って、立派な価値のあるものを守り、次の時代に伝えるように努力したんだよ」(P208)
●緒方さんは若者が坂道を下っていく姿を見つめていた。口もきかずに、何分も佇んでいた。しかし、やがてふりかえってわたしを見た目元には微笑がうかんでいた。「若いものには自信があるな。わたしも、昔は同じようなものだったんだろう。自分の思想を確信していたんだ」(P210)