とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

101年目の孤独

作家・高橋源一郎ダウン症の子供を対象とした絵画教室や身障者劇団などを訪ね歩く。雑誌「GQ JAPAN」に掲載されたルポルタージュを集めたものだ。ルポルタージュと言えば石井光太が注目されるが、作家が描くルポルタージュはそれとはまた一味違っている。感性が際立っている。
 障害者だけでなく、ダッチワイフ(今はラブドールと言うらしい)製作販売会社や発明家、自由学校・・・、映画「東京物語」から尾道の現在を振り返る一遍もある。全体を通して流れるテーマは「弱者」。
 人間は弱者として生まれ、弱者に戻っていく。生涯を弱者として生きる者こそが本来的に「人間として生きている」のかもしれない。「長いあとがき」ではそんなことを筆者は書いている。弱者にこそ、生の何たるかを教わるのだ。
 タイトルの「101年目の孤独」とはどういう意味だろう。1912年。それは明治天皇崩御し、大正時代が始まった年だ。大正時代から始まった近代化が日本の社会にもたらしたもの。それこそが「孤独」だと言うのだろうか。現代社会の孤独を打ち破ること、それは「弱者」によってこそ可能になると筆者は訴える。

●人間がほんとうに自由な気持ちになった時、なにかそこにある種の法則というか、秩序のようなものが生まれるのではないでしょうか。彼ら、ダウン症の人たちを見ていると、そうとしか思えないのです(P10)
脳性麻痺でまともに歩けずしゃべれない役者や、手や脚がなく、転がることしかできない役者たちが、テレビに出てきて、コメディをやり、コマーシャルで商品を宣伝する。・・・それは、原発がない世界よりも、もっとずっと遥かにすさまじく、新しい世界だろう。そんな日がいつか来るのだろうか。わたしにはわからない。けれども、その世界に住む人びとは、いまよりもずっと幸せな気がするのである。(P32)
●彼らは、弱いので、ゆっくりとしか生きられない。ゆっくりと生きていると、目に入ってくるものがある。耳から聞こえてくるものがある。それらはすべて、わたしたち、「ふつう」の人たちが、見えなくなっているもの、聞こえなくなっているものだ。・・・彼らこそ、「生きている」のである。(P118)
ホスピスを訪ねたことのない人たちは、ここが悲しみに満ちた場所だと思い、来ることをためらいます。けれど、来てみれば、ここが光に満ちた場所だということがわかるのです……そうです、ものごとには、両面あるのです。歓びと悲しみの両面が。そして、両面がある、ということが、なにより大切なのです(P138)
●わたしたちは、「弱い」存在として生まれる。・・・そして、また、時がたって、わたしたちは「老い」衰える。「弱い」ものとなる。元に戻るのである。だとするなら、・・・「弱さ」こそが、わたしたちの本性なのかもしれない。・・・だから、わたしたちは、社会を作り、ことばを作った。そして、「弱さ」を忘れようとしたのである。・・・わたしたちは、緩やかに坂を下っているのかもしれない。そして、そのことは、かつて想像したように、恐ろしいことでも、忌まわしいことでもないような気がするのである。そのことをわたしに教えてくれたのが、「弱い」人たちだった。(P166)