とんま天狗は雲の上

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思考術

 大澤真幸が「思考の方法」、どうやって「思考」しているのか、まさに「思考術」について語る。「序章 思考術原論」では、「何を」「いつ」「どこで」「いかに」「なぜ」思考するのか、それぞれ具体的に答えている。テーマを長期・中期・短期に分ける。出来事の真っ最中に。全体構成をA4サイズにまとめる。補助線を入れる。論争する。補論にあるとおり、思想は不法侵入者がいて初めて活性化する。
 第1章から第3章までは、社会科学書、文学書、自然科学書を数冊ずつ取り上げ、書物を「不法侵入者」として思考していく実際を示す。それぞれは昨年2月から5月まで3回に分けて開催された公開講義が元となっている。社会科学篇のテーマは「時間」。文学篇のテーマは「倫理」。自然科学篇のテーマは「存在」。そして、それらに通底するテーマは「神」だ。個人的には社会科学篇にやや手こずり、自然科学篇はスラスラと内容もよく理解できた。筆者が言うように、得意分野から読み始めればよかった。
 それにしても、大澤真幸は博学だ。多くの書物を書き、学生を指導し、対談などに参加して、なおかつこれだけの広範囲な分野の専門書をよく読めるものだと感心する。僕ら凡人とは頭の構造がかなり違っているのだろう。そして基本的に大澤真幸の文章はよく理解できる。われわれ凡庸なものにもわかるように書いてくれる。「終章 そして、書くということ」では、タイトルのとおり、筆者がいかに論文や書物、雑文などを書いているかをわかりやすく綴っている。
 筆者にとって「思考術」がなぜ興趣を寄せるテーマとなったのか。「終章」でも書いているが、50代となり、このテーマでも書き残しておきたいと思ったのだろうか。ありがたいことだと思う。久し振りの大澤節は気持ちよかった。

思考術 (河出ブックス)

思考術 (河出ブックス)

●考えるということは不安なものである。不安だからこそ考えていると言ってもよい。その不安はどこから来るのか。やはり、広い意味での他者との遭遇なのだ。それに対してどれぐらい敏感であるかによって思考の深度は決まるところがある。(P42)
●時間は、何らかの意味で「不在」の様相をもつ他者との関係である。存在の最も確実な相が現前(現在)だとして、「すでに(いない)」「いまだ(いない)」という様相をもっている他者たちを、それ自体、存在として受け取ったとき、時間は現れる。ここで、過去や未来を「他者」と見なしているのは、厳密に言えば、<私>は、「現在」「今」に限定されるからである。(P77)
●普通は、われわれ人間の方が、神の存在や赦しに賭ける。しかし、ここで見てきた論理では違う。神の方が、まず、一か八かの賭けに出ているのだ。「お前らは全員、赦された、救われた」と、神はいきなり宣言してしまっている・・・。この宣言を実効的なものにできるのは、われわれ人間の方である。われわれが、赦されるに値する者として行動したとき、神のこの宣言は「適切なものだった」ことになるのだ。・・・神がわれわれを救うのではない。われわれの方が神を救うのだ。この「神を救う為」こそが、究極の倫理的な行為ではないだろうか。(P195)
●神が見ていない<存在>のレベルでは、たとえば、次のようなことが起きる。真空から、粒子がポンと飛び出してくる。その粒子は、神=観測者に気づかれない限りで存在している。それは、気づかれる前に真空へと回帰する。・・・存在に先立つ基礎のレベル、<存在>こそは、まさに、その状態、つまり外部に純粋意識をもたない状態ではないか。<存在>は、神<観察する純粋意識>が存在しない限りで、まさにある、からだ。(P248)