とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

夢の持てた時代を生きた人

 先日、ある先輩の人生を振り返る話を聞いた。私が所属する某学会で毎年実施されているお楽しみ企画で、退職・退官した先輩諸氏に、「人生と○○」(○○にはその学会の名前が入る)と題して、いかに仕事をしてきたかを語っていただく企画だ。
 先日、話を聞いた先輩は、私と同じ大学を出て、同種の会社に就職し、最後は役員まで務めて退職をされた。技術者としては最高の出世をされた方だ。
 10年ほどの下積み生活の後、10年弱にわたり会社にとっての中心的な企画を任され、それを実現した。その当時のことを熱く語られた。そして大学時代に胸に秘めていた思いを役員になるまで持ち続け、最後の5年間でそれに精魂かけて取り組んだ。結果はかならずしも思ったとおりにはならなかったが、やりたいことをやりぬいた充実した30数年だったと振り返られた。
 この話を聞きながら、自分にとって、彼が取り組んだような夢や思いは何だろうかと考えた。思いつかない。
 団塊の世代の人びとは、就職時の夢が退職時にもまだ夢としてあり続けた、一続きの稀有な時代を生きてきたのかもしれない。それは多分、高度成長期という名の「稀有な時代」だったのだろう。
 今は「夢を持てない時代」と言われる。夢は次々と実現され、今や実現されない夢は少なく、あっても普通の人にはけっして届かない夢となり、そうして夢は人間関係など内的な心の問題へと変化してしまった。
 先輩の話の中に、若い頃は社内に自主研究グループを立ち上げ、その活動の成果がいろいろと実現していったという話があった。報告会終了後の懇親会では、今の若手社員にはこうした自主研究活動はみられないと言う。先輩曰く、「今の若い人たちは、我々の頃と違ってずっと忙しく、密度高く仕事をしているから、時間外にとてもそんな時間は持てないのではないか」。本当にそうだと思う。
 そしてそんな社会に未来はないし、夢も持てない。いや未来は必ずやってくるが、夢が持続しないだけの話か。時代は大きく角を曲がってしまった。