とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

人間なき復興

 筆者のうち、市村高志は「NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク」の理事長。原発事故前は富岡町で自営業を営み、現在も避難を続ける被災者だ。そして2名の社会学者。本書はその一人、山下祐介を中心に、市村が主宰するNPOと山下と佐藤彰彦が所属する社会学広域避難研究会が共同で実施したタウンミーティングでの被災者の発言等をベースに、三人で議論した内容がまとめられている。
 全部で4章から成るが、分担して執筆するのではなく、例えば「市村は言う。『・・・』」というように、適宜、三人の言葉が取り上げられ、それとタウンミーティングでの被災者の言葉に寄りかかりつつ進められる考察とで構成されている。基本的な地の文章は山下が執筆しているのではないかと思われるが、それを明らかにせず、あくまで三人の共著という形を取っている。
 テーマは原発事故により被災者に、そして避難者になった人々の復興は如何にあるべきか、ということである。本書全体を流れるキーワードは「不理解」。被災者は様々な意味で「不理解」にさらされている。そして、被災者/支援者、強制/自主避難、県外/県内避難、津波原発被災など様々な意味において分断が起こっている。分断はこうした避難・被災状況の違いだけでなく、高齢者世帯と子供を抱える世帯、さらには家族内の高齢者と若い人々、夫と妻など、個人個人のレベルで発生している。
 こうして分断された家族や個人を、国の帰還政策がさらに分断を加速する。分断された個人に個別に判断を突き付け、国が想定する生活様式を受け入れられない人は容易に切り捨てていく。被災者は元の生活、元の地域、元の家族への復旧を望んでいるのに、現地はけっして元には戻れない状況にある。にも関わらず、帰還可能とした地域へ帰らないのは被災者の自己責任として賠償などが休止されていく。そんな状況が始まりつつある。
 元の地域とは何か。人はいかに復興されるのか。「ふるさと」とは何か。タウンミーティング参加者の言葉の上に、三人の議論を重ねることで、現在進められている復興がいかに人間を取り残したまま進められているかを明らかにしていく。
 さらにこのままの復興が進められた場合の最悪のシナリオとして「危険自治体」の誕生を予感する。その予感が外れることを祈るが、確かに人間を顧みず、カネだけで進められていく復興の先行きはこうした結末になるかもしれない。
 「じゃあどうすればいいの?」 最終節で挙げられる事柄は決して最善解ではないかもしれない。しかしできることは限られている。被災者が自覚を持ち、また国民が自覚を持つことでまずは真の復興への一歩が始まる。「世論を作るのは一人ひとり」という言葉は正しい。まずは国民それぞれがじっくり考えてみることだ。もちろん私も例外ではない。まだ全然既成概念にとらわれ、不十分なことは自覚している。「不理解」という壁があることを理解すること。まずはそれから始める必要がある。

人間なき復興――原発避難と国民の「不理解」をめぐって

人間なき復興――原発避難と国民の「不理解」をめぐって

●人は単体の個人個人であるのではなく、そこに積み上げられた人々との関わりあいのなかではじめて「人」であるわけだ。むしろ、その関わり自体が「人」であるといったほうがよい。だから人の復興は、他の人々との関わりの復興でもあり、コミュニティや社会の復興そのものでもなければならないはずだ。(P50)
●避難は定義上、どこかで終わるものではある。あきらめであれ、断ち切りであれ、避難は自らの手で終えることができる。それに対し、ずっと残るものがある。それが「被災者」だ。被災はもしかすると、避難を断ち切っても、一生ずっとついてまわる。それは一つの経験であり、本人や家族が一生抱えなければならない記憶である。また被災の経験はスティグマでもある。逃げようとしても、外側からたえず嫌でも押しつけられる烙印である。(P137)
原発立地地域の住民も、そこに住んでいた以上、事故のリスクを負うべきだという議論もあるが、それはやはり暴論だ。この安全の賭けは、小さな地域社会や地方自治体の賭けではなく、国家による賭けである。リスクを投じて得られるものは、国家という総体にとっての利益であって、そのための原子力だったからだ。・・・事故は起きないという安全神話を信じていたのが悪いのではない。そもそも事故は絶対に起こしてはいけなかったのだ。そして万が一にも起きるようなことがあるのであれば、はじめから原発を国民に押しつけてはいけなかったのだ。(P200)
●ここまできてようやく、「不理解」のもつ暴力性の本体が見えてきたのではなかろうか。/それは「平準化」、それもある方向への一方的な「平準化」を要請する強い力だ。・・・それは既存のルールに従っていて、全体の公平性、平等性という、一見まっとうな観点から、反論することが許されないようなかたちで進められていく。しかしこの平準化の要請は、現実にはある一定の生活様式への編入を強要することを意味しており、そしてそれはここにあった暮らしの否定―人生の否定、生活の否定、歴史や文化の否定、地域社会の否定―要するに、全否定が潜んでいるようなのだ。(P235)
●安全と復興。これを天秤にかけて、安全を犠牲にして復興を優先したとき、それは被災地を復興の場ではなく、単なる、カネを落とすための公共事業の引き受け場所にする可能性がある。そこは、「危険でも仕事があればよい、カネがもらえればよい」という層が大勢集まってくるところになりそうだ。そしてもし、こうした人々だけが現地に入り、「犠牲になってでもまちを存続させたい」あるいは「遠くからでも町を見守り、いつかは帰りたい」と願う層を排除して自治体を乗っ取ってしまったら。/「危険自治体の形成だ」と佐藤はつぶやく。(P268)