とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

路地裏の資本主義

 平川克美の資本主義論を読むとホッとする。「路地裏の資本主義」というタイトルには、一介の中小企業経営者という立場から世界の経済状況を眺めている気概が込められている。世界は渦中で見るのではなく、神の視点から見ることもできなければ、下から、今いる場所から見ればいい。そうしてこそ見えてくるものがある。それがまさに「路地裏の資本主義」。
 株式会社は成長がなければ継続できない仕組みである。一方で、各国にはそれぞれの地域、文明がもたらしてきた地映えの家族システムがあり、それが地域独特の経済システムを形作ってきた。日本の場合、それは家父長制のイエ制度を元とした経営システムであった。エマニュエル・トッドの分析を引用し、地域に根ざした、継続する経営システムを構想する。株式会社はたぶんそのままではこの経済システムと相容れない。
 一方、資本主義も無目的な発展形態の一つの様相として現れてきた。誰かが資本主義を作ったわけではなく、あるべくして資本主義が現れ、それをマルクスが資本主義と名付けた。だが、その中から貨幣にだけ注目して発展させていった末が、現在のグローバル資本主義や金融資本主義に至っている。元に戻れば、ただ貨幣の交換価値の魔術に嵌っただけ。我々は何を目指しているのだろう。金を集めて何をしたいんだろう。
 それを、路地裏の喫茶店で猫の生態を眺めながら考えてみる。我々はどこへ行きたいんだろう。猫のような暮らしでいいじゃないか。あるもの・与えられたものの中で精一杯生きて、そして死んでいく。環境とともに生きるということは本来そういうものだろう。いかに死ぬかを考えるとき、人は少しは大人になれるのだろうか。
 人は資本主義や経済システムのために生きているのではなく、人のために社会システムはあるはずだから。

社会主義は資本主義を批判する中から生まれましたが、どうやら、資本主義というものは何か先行する生産様式や、社会システムに対抗するために、誰かが先行システムを分析し、批判し、新たな代替策としてわたしたちの世界に登場してきたわけではないということです。言い換えるなら、それは人間の社会の無目的な発展形態の一つの様相であり、資本主義とは、まさにその無目的的な発展を可能とするようなシステムであったということです。(P25)
●貨幣には使用価値はありません。使用価値として見た場合には、貨幣はただの紙切れです。・・・労働(身体性)をともなわない商品こそが、貨幣であり、同時にそれが貨幣の魅力であり、人を惹きつけてやまない呪力もまたそこに起因しているように思えます。・・・使用価値そのものである人間(純粋な使用価値)というものを考えたとき、それが生み出す商品が、使用価値のまったくない商品(純粋な交換価値)であるお金と交換される。それはまさに、魔術的な交換であり、そこにこそ、人間がお金というものを信仰の対象にする契機があったのではないかと思うのです。(P32)
●「死」はわたしのものであると同時に、わたしのものではない何かです。/現代の資本主義の世の中においては、すべてが交換可能なものとして計量され、価値判断される傾向にあります。・・・「死」の自己決定、自己責任という考え方の根底には、ものの売買が自己決定、自己責任で行われるという文脈がありますが、「死」とは本来的にそういった文脈からの逸脱そのものなのです。/わたしたちは、自分の「死」を死ねない。こういうことの意味を深く考えれば、簡単に「リビング・ウィル」に署名などできないはずです。(P85)
●近代社会は、国民国家というフィクションと、株式会社というフィクションの上に発展してきました。留意しなければいけないのは、この二つのフィクションの上でつくられてきたさまざまな制度は、すべて経済が右肩上がりに成長し、文明が都市化へ向かって進展するという背景のもとに考案されてきているということです。・・・株式会社にとっては経済成長というバックグラウンドが必須の条件であり、経済成長の終わったところでは、資本と経営の分離という株式会社システムそのものが成立しなくなってしまうわけです。/それゆえ、株式会社が生き延びていくためには、成長の鈍化した国民国家の枠組みを食い破り、発展途上国の右肩上がりの要件を取り込む必要があったのです。(P164)
●毎日、職場の近くの銭湯に通って、広い湯船に浸かっていると、競争戦略、成長戦略原発再稼動、集団的自衛権行使なんていう言葉が、いかにも前のめりの、落ち着きを欠いたものに思えてきます。/よく見れば、足下に定常経済はいくらでも見出せるはずです。そういう場所を大切にしながら、大人の国としての経済を構想する。大人の国は、大人の意識を身につけたものによってつくられる。/わたしはそう思っています。(P224)