とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

村上春樹を読む午後

 村上春樹は好きだが、これまで村上春樹作品を批評する評論本はほとんど読んでこなかった。村上作品を読んで楽しむ自分の感性をこそ大事にしたいし、他人がするつまらない謎解きなど読みたくないと思っていた。
 本書の筆者である湯川豊氏は「文藝界」の編集長を務めた後に大学教授を歴任、小山鉄郎氏は共同通信社の文芸担当記者を務めていたジャーナリスト。気心の知れる二人の対談が4編と、それぞれが書き下ろしたコラム15編が掲載されている。さらに「はじめに」と「あとがきに代えて」。
 これらを読むと、いかに自分の読みが浅かったかを思い知らされる。日頃から作家と編集者という立場で長編刊行後のインタビューなどを行ってきた二人には、日頃から村上春樹本人とつきあいがあり、人となりを知る機会も多い。それに加えて村上作品を実によく読み込んでいる。『風の歌を聴け』から『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、さらには『女のいない男たち』まで。『1Q84』の論評を読んで、確かにそんな場面があった。あれはこう読めるのかと感心することしかり。そしてもう一度読み返したいと思ってしまう。
 二人で村上作品を解釈しようとするのではなく、「私はこういうふうに読みました」「いや、僕は少し違うな」と二人の興味がそれぞれ異なり、それを認め合いながら対談が進んでいくところも読書の楽しさ、村上作品の奥深さを伝えている。「村上春樹を読む午後」。確かにそんなタイトルが似合う。ゆったりと時間が進む陽だまりの午後を思わせる。読んで楽しい村上本だった。

村上春樹を読む午後

村上春樹を読む午後

●「僕」は「ワタヤ・ノボル」と対決して、バットでたたきつぶします。この「ワタヤ・ノボル」は、「僕」の分身、または「僕」を含めた日本人の分身ではないか。闇の中での闘いは自分の心の中の闘い、自分の魂の中の闘いです。/つまり人間には「聖なる人」と「邪悪な人」がいるという考えではなくて、一人の人間の中に「聖なる部分」と「邪悪な部分」があるということではないでしょうか。(P51)
●日ごろ、我々は日常の忙しさに紛れて、自分が手放してはいけない大切なものの姿に気づくことができない。だが自分にとって大切なものを失い、その切実な感情の中で、自分にとって大切なものと対話することによって、何が自分を支えているのか、何を損なってはいけないのか。そのほんとうの姿に気がつくのだ。そして思わず涙する。/人はその時、成長しているのである。村上春樹の小説はいつも<人間が成長することの大切さ>というものを書いた<成長小説>である。(P94)
●悪は、確固として存在しているのではない。人間が他の人間にとっての他者として存在するとき、悪という側面をどうしても発揮せざるを得ないものとしてある。悪意とかの、気持ちのもちようをいうのではなく、関係の中に現われるものなのではないか。Aという一人の人間を囲むB、C、Dという他者は、それぞれが存在として悪になり得る。それが、原初的な悪の姿である。(P107)
●私と湯川さんが『海辺のカフカ』でインタビューしたとき、村上さんは、自己表現というものはやっぱりすごくいやだ、というようなことを話していました。自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるから、みんな苦しむと話していた。・・・エリ(クロ)が「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」といいます。誰かが思わず何かを入れたくなるような美しい入れ物になればいい、と。(P169)
●今まで、我々を支えてきた世界の構造は崩れ去り、新しい世界は未だ成らない。こんな状況の中、我々はもう一度、世界を新しく編み直さなくてはいけない。/そんな時に村上春樹の物語が進む方向は独特なものである。世界と結びつくときに、村上作品の主人公たちは、・・・自分の心の中へ、魂の中へ、深く潜っていくのである。魂の奥深く降りていき、そこにある姿と闘うことで、世界と結びつくという形をとっている。・・・それは神話的世界だ。・・・村上春樹は、その神話世界まで降りていって、その世界共通の基盤から、新しい世界を編み直そうとしているのだろう。(P243)