とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

アクアマリンの神殿

 久しぶりに海堂作品を読んだ。いや、先日は海堂ブログをまとめた「いまさらですが、無頼派宣言。」を読んだが、小説を読むのは、昨年6月に読んだ「カレイドスコープの箱庭」以来、半年振りか。
 東城病院や厚労省その他を舞台とした社会派的な作品もいいけれど、本書のような青春物を書かせると、筆者の筆がのびのびと揮われ、読んでいて楽しい。大人なら誰でも、特に海堂氏のように作家を副業にして本職を持っていると、本職のストレスから解放されて書く青春物は書いていても格別の楽しさだろう。
 海堂氏はもう作家が本職と言われるかもしれないが、社会派作品が本職と思えば、人工凍眠が主題となった本シリーズでは人権倫理問題を取り上げたいという意向はあったとしても、しょせん現実味のない思考実験。自身の青春時代も思い起こしながら書いているであろう本書は本当に楽しそうだ。そして海堂作品の魅力の一つが諧謔あふれるアフォリズム。本書でも随所にそんな言葉が散見される。これも面白い。
 白鳥・田口シリーズは終わったけど、他にも極北シリーズやマリア・クリニックのシリーズ、ナニワものなど多くのシリーズが未完のままだ。次はどのシリーズだろうか。ゆっくりといつまでも楽しんでいきたい。

●民主主義は、いつか必ず衆愚社会に堕する。怠惰な無思考は独裁に移行する。一方、民主主義のアンチテーゼである独裁はファシズムに直結するので衆愚政治よりもはるかに危険だ。民主主義が堕落すると衆愚政治に、独裁が進むとファシズムになる。その意味で衆愚政治ファシズムはコインの裏表だ。(P44)
●「他人の親切を百パーセント信じてはいけないよ。そこには何かしら打算があるものさ。でも、そうした打算までカウントできれば、他人は充分信頼に値するんだ」(P170)
●この世で重要なのは、“何を言うか”ではなく、“誰が言うか”ということなのだ。(P214)
●「池のさかなは、池の形を知ることはできないの。だから佐々木アツシ問題は、佐々木クンにはわからないのよ、きっと」・・・盲点だった。ぼくの問題だから、ぼく自身が一番把握しているはずだと思いこんでいたけれど、確かにぼくの問題の理解から一番遠いのはぼく自身なのかもしれない。(P301)
孫悟空は、お釈迦さまの手のひらの上で思い切り暴れなければ、お釈迦さまの大きさはわからなかったわ。ふつうの人は手のひらの上で踊ることさえしようとしないのよ」/そうかもしれない。/たとえ結果がどうであろうと、できることを精一杯やり遂げること。/それが一番大切なのかもしれない。/いや、違う。それだけが大切なことなのだ。(P355)