とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

女のいない男たち

 1年経ってようやく村上春樹の短編集「女のいない男たち」を読んだ。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」からほぼ1年、久しぶりの短編集として話題になった。それで当時は文庫本になってからでもと思ったが、ついつい図書館で予約し、ようやく順番が回ってきた。
 読み終えて、「全然、女がいない男じゃないじゃん」と思った。よく読むと「まえがき」に「女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」と書かれている。結局、どれも男と女の物語なのだ。
 6編の中で最も気に入ったのは「シェエラザード」。女性が高校生の頃、初恋の男性の家に空き巣に入ったという話だ。「ねえ、あなたにはそういうことってあった?」(P207)。主人公の男性は「それほど特別な出来事はなかったと思うな」と答えるが、実は僕にはある。それ以上は書けないけど、だからこれを読みながら自分の高校時代を思い出した。
 これを含めていずれも、いつもながらの村上春樹だ。最も村上春樹らしいのは「木野」かな。根津美術館近くでバーを経営する男性にじわじわと押し寄せる怪奇な気配。そして逃げ出した旅先で自分の心の中の空虚について初めて理解する。
 男性にとって女性は欠くべからざるものなのだろうか。こんな華麗な過去もない、ただ本当に女性と縁のない男性って実際は多いと思うけれど、村上春樹の頭の中にはないのだろうか。それでは小説にならないということか。私としては本当の意味で「女のいない男たち」の小説を読みたかった。それも村上春樹の手で書かれたものを。それが少し残念だ。でも全体的に、久しぶりの村上春樹はやはり楽しいなと思った。

女のいない男たち

女のいない男たち

●どれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。(P54)
●どんな種類の話であれ、彼女が話すとそれは特別な物語になった。口調や、間の取り方や、話の進め方、すべてが完璧だった。彼女は聴き手に興味を抱かせ、意地悪くじらせ、考えさせ推測させ、そのあとで聴き手の求めるものを的確に与えた。その心憎いまでの技巧は、たとえ一時的であるにせよ、聴き手にまわりの現実を忘れさせてくれた。(P172)
●人生って妙なものよね。あるときにはとんでもなく輝かしく絶対的に思えたものが、それを得るためには一切を捨ててもいいとまで思えたものが、しばらく時間が経つと、あるいは少し角度を変えて眺めると、驚くほど色褪せて見えることがある。私の目はいったい何を見ていたんだろうと、わけがわからなくなってしまう。(P207)
●両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。・・・適切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。(P256)