とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ポスト資本主義

 久しぶりに広井良典の新刊が出た。ネットで注文したら品切れ。それで書店で購入。読み始めるまで時間がかかった。「ポスト資本主義」というタイトルで広井良典が経済論を語るのかと思ったが、さにあらず。これまでにも提案をしてきた「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」について語る。
 しかしそれを語る第3部の前に、第1部で資本主義の過去をおさらいし、スーパー資本主義対ポスト資本主義の二つの未来を予測する。そして本書一番の特徴は科学の進歩とその意味を考察し、社会の変遷と対峙させる点にある。第2部「科学・情報・生命」では人間と自然の関係について再度科学を通して考察する。
 そして第3部「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」では、「資本主義的な理念を存続させるためには社旗主義的な対応が必要となる」「資本主義と市場経済は対立する」「資本主義の抑圧から市場経済や個人の自由を守る」といったパラドキシカルな構造を説明し、「持続可能な福祉社会」の根底となる「コミュニティ経済」について構想する。
 さらに終章では地球倫理に思いを馳せる。普遍宗教の発生を探り、最新の宇宙論に学んで、自然や環境こそ人間社会の根源であることを語る。ローカルとグローバル、そしてユニバーサルが一つにつながる精神世界を構想する。広井哲学はどこへ行こうとするのか。未来はまだはるか遠いように思うが、意外にすぐそこまで来ているのだろうか。「緑の福祉国家」の早い実現を希望する。

●人々の認識や行動を方向づけるような影響力をもつ「指標」というものは、“真空”の中で生まれるのではなく、ある時代の経済社会的あるいは政治的な文脈の中で生成するのである。/思えば近年、ブータンの「GNH」をはじめ様々な幸福度指標をめぐる展開があり・・・「豊かさ」に指標に関する動きが活発化している。/これは・・・現在の世界の状況を踏まえた真の豊かさや発展に関する新たな指標やコンセプト、ひいては「限りない拡大・成長」というパラダイムそのものの根底的な見直しが求められる時代に私たちは入ろうとしているのではないだろうか。(P51)
●およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための“手段”として生成するのではないか・・・逆に見れば、・・・近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言えるだろう。(P99)
●かつての時代は“人手が足りず、自然資源が十分ある”という状況だったので「労働生産性」が重要だった。しかし現在は全く逆に、むしろ、“人手が余り、自然資源が足りない”という状況になっている。したがって、そこでは「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要で、生産性の概念をこうした方向に転換していくことが課題となる。(P145)
●経済が成熟・飽和していく中で「ストック」の重要性が再び大きくなっていくとともに、環境・資源制約やその有限性が顕在化し、環境ないし自然という究極の“富の源泉”が認識されるようになる。・・・イギリスの経済思想家ロバートソンは「人間が加えた価値」よりも「人間が引き出した価値」に対して課税するという興味深い議論をしている・・・つまり自然資源は本来人類の共有の財産であるから、それを使って利益を得ている者は、いわばその“使用料”を「税」として払うべきといった理解である。(P175)
●地球倫理においては、原初にある自然信仰の価値を再発見し、それに対して積極的な評価を与える。なぜなら地球倫理の視点からは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」はむしろあらゆる宗教や信仰の根源にあるものであり、・・・普遍宗教を含む様々な宗教における異なる「神(神々)」や信仰の姿は、そうした根源にあるものを異なる形で表現したものと考えるからである。・・・もっとも「ローカル」な場所にある自然信仰は、その根源において宇宙的(ユニバーサル)な生命の次元とつながり、それはグローバルな地球倫理をも包含する位置にあると言えるかもしれない。(P241)