とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

わたしたちは砂粒に還る

 この前に読んだ本の文章がひどかったので、今福龍太の文章は上手いなあと感服しながら読み進めた。しかしやはり難解。いくつかの雑誌等に寄稿した批評文を集めたものだが、第1勝「幻を見る人」はジャック・マイヨールフェルナンド・ペソア、ヒューストン・ベイカーJrなど、第2章「生の贈与」は岡本太郎論、第3章「ル・クレジオの王国」はル・クレジオ論、第4章「ひとの奥処」は寺山修二、松岡心平、多木浩二ゴーギャン。それぞれ筆者が愛してやまない作家等への愛情あふれる評論文が続く。

 第1章に収められた「本を還すための砂漠」は唯一、作家ではなく、本そのものへの愛情を語る。そしてその文章が私には最も美しく楽しかった。他は、取り上げるそれぞれの人物を私が深く知らない、いや多くは本書で初めて知る人物も多く、ただひたすら読んでいくのみ。かつ難解。途中で何度も放り投げそうになったが、それでも完読したのは文章がすばらしいから。そして常に「群島‐世界」に身を置く筆者の姿勢を感じる。

 「わたしたちは砂粒に還る」というタイトルはそのまま筆者の死生観を物語っている。砂粒の中から現代の社会を見るとき、見えてくる世界がある。そしてそれは、ジャック・マイヨール岡本太郎ル・クレジオ等と共感するものだ。その砂粒のサラサラという動きは私の身体にも響いて、私の身体も砂粒に還っていく。乾いた物質の中にこそ真実が隠されている。

 

わたしたちは砂粒に還る

わたしたちは砂粒に還る

 

 

○長い年月をかけて野生を馴化しながら人間が文明を創造したのだとすれば、その文明の到達点に立ち塞がる現在の困難からの脱出路は、まさに野生世界を統率する原理へとふたたび回帰する道にしかない。そしてこの文明と野生の臨界域こそ、人間が死を賭して挑まねばならない現世的肉体の消失点にほかならなかった。(P17)

○書物のなかに線や文字として刻まれた思念が由来する知性の根源の泉のありかを静かに教えてくれるものとなる。一冊一冊の異なった書物が、みずからのそれぞれに異なった身体をもって、固有の声を挙げるのに立ち会うこと。読書という行為もまた、その繊細な単独の声を聴きとることにほかならない。(P49)

エクリチュールイデアの表明ではなく、イデアのなかに住むモノの明証性をおのれの傍らに呼び込むためのさそい水にほかならない。だがこの水は何という浸透力を持っていることか。すべてを、永遠を、無までを引き寄せる何とおどろくべき張力を宿していることか。(P154)

ポリネシアメラネシア韓半島多島海南シナ海の島々、そして沖縄・奄美群島……。これらすべてが「見えない大陸」として繋がっていることを、ぼくはいまあらためて発見したような気がする。・・・地図にはない大陸。そこには領土もなく、国籍も、国境もない。でもそれは、たしかにもう一つの大陸なんだ。・・・17世紀、太平洋に進出した西欧人の航海者たちは未知の大陸を探しつづけていた。・・・彼らは、無数の島々、無数の見えない大陸の脇を通りすぎ、それらがもう一つの世界を形成する繋がりであることにまったく気づかなかったんだ。(P200)

○風も、砂も、すでに私たちにとって純粋に物理学的な存在としての「自然」ではなくなった。そして自然と文化とは相互に対立するのではなく、文化が自然を模倣し、自然が文化によって更新される過程のなかで、両者はある種の創造的な合成力によって結ばれはじめた。私たちの環境は、人間文化を組み込んだ「第二の自然」として新たに生きられようとしている。(P285)