とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

シャルリとは誰か?

 昨年1月に発生したシャルリ事件からもう1年以上の月日が過ぎた。あの時フランスで、そして世界中で実施された「私はシャルリ」デモには強い違和感を覚えた。フランス人であるエマニュエル・トッドにとってはさらに強い違和感を持ち、かつそれを表明することで大いに批判を浴び、また危機感を覚えたという。それでほぼ半年後に、フランスにおいて本書が刊行され、そしてその後、11月にはパリで大規模テロ事件が発生した。本書はシャリル騒動を対象に、フランス人に向けて、フランスの政治状況・社会状況について分析・研究したものである。それでフランスの地理や歴史、政治状況を知らないとわかりにくい部分も多い。かなり苦労してようやく読み終わった。

 これが日本や世界の政治・経済状況にいかに関わっているのか、汎用性があるのかは正直わかりにくい。冒頭の「日本の読者へ」に書かれているが、「宗教的空白+格差の拡大」が「外国人恐怖症」を生むという公式は確かに日本でも当てはまるように思う。日本における右傾化はまさにこうした現象として説明できる。

 フランスでこうした状況を生んでいる階層は、中産階級(M)、高齢者(A)、カトリック教徒のゾンビ(Z)であるとして「集合体MAZ」という言い方をしているが、日本の場合(Z)を高度成長期からの転換ができずにいる人々(団塊の世代もそうだし、バブル世代も当てはまる)と考えれば、日本においても同様のことが言える。フランスにおける大統領選等の投票結果の分析から、平等主義的な極右、非平等主義的な左翼という逆の現れを説明している点も興味深い。

 筆者はフランスの現状について全く悲観的だ。自虐的に、フランス人がドイツ人のように真面目ではないことを唯一の救いとしているが、日本においてはどうだろう。「日本人は万物の有為転変と、世界が一筋縄ではいかないことを忘れず、明確化され過ぎた一つのモデルに固執し過ぎることを避ける」と書かれている。確かにそういう面もあるが、一方で全体として一方向に流されていく性向もある。後者の性向が強まり続けているようで不安だ。

 シャルリとは誰か? それは日本においてもいつ頭をもたげるかわからない。「宗教的空白+格差の拡大」は既に現実のものとなっている。「シャルリ」とは「社会不安」のもう一つの顔に違いない。

 

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)

 

 

 ○グローバルなもの、世界的なもの、普遍的なものを称揚するイデオロギーが地球全体を覆っているにもかかわらず、歴史の現実がわれわれの前に繰り広げるのは、経済的な試練とポスト宗教の精神的空白の中で諸国民がもともとの姿に立ち返って・・・ますます自己陶酔的になっているありさまです。(P7)

○フランスのあり方を大きく変えたのは、カトリシズム出身ではあっても、カトリシズムをすでに捨ててしまっていた有権者たちの票なのであった。つまり、単一通貨の採用は・・・唯一神への信仰の放棄に続いたのだった。・・・退潮いちじるしく、消失している宗教の代替物としてひとつのイデオロギーが求められたのだった。(P73)

デモ行進を実施させた決定要因は、マーストリヒト条約批准への賛成票を投じさせた決定要因と同じだ。強いモチベーションを示した社会階層は・・・カトリック教徒のゾンビの多い地方において富裕化した中産階級であった。・・・シャルリはしたがって「新人類」ではなく、われわれにとって昔からの馴染みなのである。(P106)

○価値を担うグループは・・・何らかの空間の中にある種の形で身体ごと入り込むことによって初めて、諸個人間の日常的な相互作用が発生し、それが信念や行動習慣を活性化させる。ひとつの社会生活環境は、強い信念とは何の関係もない日常的な模倣減少によって存続する。・・・個人は弱いのに、システムは強い。(P221)

○ヒステリックになった平等主義は・・・他者を拒絶することにつながる。他者が自分たちと同じようであるはずなのに異なるからといって、相手を最終的に「人間でない」かのように分類してしまう。(P265)

○フランスがフランスであり続けられるのは・・・間違っても、冒涜に関するイデオロギーを耕すことによってではないし、ライシテ(世俗性)の優先的擁護の名において公民教育に邁進するよう鼓舞することによってでもなければ、その他諸々の、大仰な空文句によってでもない。フランスはもしかしたらいつの日か、現下の袋小路から抜け出すかもしれない。なぜなら・・・フランスは決して完全にはまじめでないからだ。(P297)