とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 昨冬に文庫版が出たので愛蔵用として購入した。長らく読まずに置いていたが、お盆休みに時間があったので、久し振りに読み返した。前に読んだときには「ノルウェイの森に通じる心を打つ恋愛モノ」という評価だったが、今回も基本的な印象は変わらない。しかし全体のストーリーがわかって読む2度目は、若い頃の友情、青年期の悲痛な痛み、そして死を感じつつ成長する人間の生が全体として描かれていることを改めて確認しながらの読書となる。単なる恋愛小説ではない。死も単にメランコリックな事象ではなく、真に生と対峙するものとして描かれている。

 だがその分つまらなさもあるかもしれない。内容のない豊かさや、喪失や痛みゆえの調和といった内容は、今となっては当たり前にも思える。ひょっとしたらその程度のことならもっと深く描き出している小説があるかもしれない。しかし村上春樹の良さは、還暦を過ぎてなお、こうしたことをわかりやすく描くことができるところにある。その意味で面白い。

 読みながら、「海辺のカフカ」ってどんな内容だったっけと思った。もちろんこれまでも読んで、村上作品の中では一番好きと公言してきた小説だ。少年の成長譚だと理解していたが、違う読み方もあるかもしれない。何度も読みながら理解を深めていく。それができるのも村上作品の楽しさの一つだ。「1Q84」ももう一度読み返そうか。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

○「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史が消すことはできない」。沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」(P46)

○おれは内容のない空しい人間かもしれない、とつくるは思う。しかしこうして中身を欠いていればこそ、たとえ一時的であれ、そこに居場所を見いだしてくれた人々もいたのだ。夜に活動する孤独な鳥が、どこかの無人の屋根裏に、昼間の安全な休息場所を求めるように。鳥たちはおそらくその空っぽの、薄暗く静まりかえった空間を好ましいものとしたのだ。とすれば、つくるは自分が空虚であることをむしろ喜ぶべきなのかもしれない。(P280)

○そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。(P350)

○自分の心のなかにいったいどんな濃密な闇が潜んでいるのか、つくる本人にも見当はつかなかった。彼にわかるのは、ユズの中にもおそらくユズの内なる濃密な闇があったに違いないということだ。そしてその闇はどこかで、地下のずっと深いところで、つくる自身の闇と通じあっていたのかもしれない。そして彼がユズの首を絞めたのは、彼女がそれを求めていたからかもしれない。(P362)