とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

近代政治哲学

 ずいぶん前に購入してあったが、なかなか読み始める気が起きなかった。何よりタイトルが堅い。パラパラと開くと、スピノザやルソー、カントらの名前が書かれている。これはいかにも難しそうだ。しかし読み始めてみると、何と、とても読みやすい。あっという間に読み終えてしまった。そして実に面白い。

 考えてみればこれまで、スピノザもルソーもカントも読んだことがなかった。最初に出てくるジャン・ボダンに至っては聞いたこともなかった。ホッブズジョン・ロック。ヒュームの名前もある。彼らが国家や政治体制等について何を言ってきたか。高校生の頃、ロックやヒュームの名前を聞いたことはあるが、教科書には彼らの名前と思想がカタログ的に並べてあるだけで、彼ら相互の関係はわからなかった。ホッブズの言う「自然状態」を受けて、スピノザが考えた「自然権」とは。ルソーの言う「自然状態」とホッブズスピノザの「自然状態」との違いは何か。そしてヒュームの「経験論」とは何だったのか。カントの「平和論」とは。これらがコンパクトに関連付けて説明されると、連続したものとしてスラスラと理解できる。すばらしい。

 ところで読み終えてみると、筆者は民主主義を標榜する現代国家において、行政権が突出して権力化している実態を批判している。そう言えば筆者は「来るべき民主主義」都市計画道路の問題を取り上げ、行政批判をしている。この経験につながる議論だなと思った。國分功一郎の他の本も読んでみるとするか。

 

 

○封建国家には領土の概念がない。封建国家にあるのは、契約による人的結合だけである。・・・領土が存在せず、契約関係だけが複雑に絡み合っている・・・封建国家には・・・立法の観念それ自体が存在しない。・・・既存の秩序の変更は、利害関係者たちの契約上の合意によってのみ可能であ[る。]・・・国王の支配は国王と直接に契約している直属の封臣のみに及ぶのであって、一般人民との直接の関係は存在しない。(P021)

○それまでの法学者たちは、支配者を本質的には「裁き手」であると、すなわち司法権の担い手であると考えてきた。ボダンはそうではなくて、主権者の支配者たる所以を、法を作り出す権力に求めたのである。・・・立法するためには立法の根拠がなければならないが、その立法の根拠は立法する主体であるところの主権者が「絶対的で、永続的な権力」であるからに他ならず、また、そのような権力がルールを定めるのだから、立法という行為もまた成立しうる(P031)

○人生も社会も自然も人間の思い通りにならないことに溢れている。自然は人間の営みをいともたやすく破壊し、社会は往々にして残酷であり、人の心は移ろいやすい。だから人は不安を抱く。そして時に恐怖に陥る。恐怖こそは人々を迷信へと駆り立てる最大の力である。・・・恐怖に駆られて何かを信じるということは、自らの力で自由にものを考えず、隷従するということだ。そして隷従する方が楽なのである。隷従は恐怖や不安を解いてくれるから。(P086)

○ロックの構想する体制は・・・行政権が実に強大な権力を持った国家の姿に他ならない。・・・しかしロックは、行政にこれだけ強大な権限を認めておいた上で、それでも行政権は、立法権に従属する権力にすぎず、最高権力は立法権にあると主張するのである。・・・そしてこの国家像は、我々のよく知る近代国家の姿と大きく重なる。すると、ロックのような建前論的思想によってこそ、近代国家の欺瞞が支えられてきたのではないかと考えずにはいられない。(P118)

憲法を一般意思の実現と見なしてみよう。一般意思が常に正しいのは、当然である。なぜなら、その実現形態である憲法そのものが正しさの基準だからである。・・・一般意思を人民が決議によって正しく導きだせるとは限らないのも当然である。近代の国家は、民主主義的な手続きによっても侵してはならない原則を取り決め、それを憲法に書き込んでいる。こうした国家の運営の仕方、あるいは思想を、立憲主義という。/立憲主義はある意味では民主主義と対立する。なぜならば、民主主義的な手続きによっても変更できない諸原理を憲法で守るというのが立憲主義の考え方だからである。(P158)

○現在の我々の政治体制は・・・「民主主義」という名前だけを利用しながら、事実上の貴族制を採用している。/したがって、カントが指摘した「民主制」の欺瞞、すなわち、執行(行政)権の下す個別的であるにすぎない判断が、「民主主義」の名の下に、まるで全員の判断であるかのように扱われるという欺瞞が、十分に起こり得るということだ。「全員でない全員」によって決定が下されているにもかかわらず、「民主主義」という名前でその欺瞞性がかき消されることが十分に考えられるのだ。(P228)