とんま天狗は雲の上

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統治新論

 本書が発行されたのは2015年1月。この対談で大竹弘二に触発されて、國分功一郎「近代政治哲学」を執筆したのか。もちろんそれ以前から政治哲学に対する関心はあったのだろうが・・・。

 最初は特定秘密保護法を巡る議論から。そして「解釈改憲」や「集団的自衛権」を考える中で、戦前ドイツのシュミットやベンヤミンの思想を考察する。続いて、ルソーやスピノザホッブズリヴァイアサンの図像などを考察する中で、主権概念について議論する。さらにオルド自由主義の考察と評価。ドラッカーに見る国家の役割と有効性。そして最終章では立憲主義と民主主義について考察する。

 刺激的な議論が続く。統治は憲法を乗り越えてしまうのか。それとも憲法自然権により制御されるのか。改憲論や共謀罪の議論が続く中で、政府とは、統治とはと考えてみることは、今こそ有効だ。もしかして現代は、主権国家から契約に基づく封建国家へ回帰していく途中かも知れない。そんな問題提起も面白い。今の日本において主権とは、いったいどこにあるのだろう。

 

統治新論  民主主義のマネジメント (atプラス叢書)

統治新論 民主主義のマネジメント (atプラス叢書)

 

 

〇統治行動が民間企業に外部委託されるようになると、行政国家ですらなくなってしまう。そのときには、単に行政権力が肥大化するというだけにとどまらず、統治が国家の決定する法やルールから完全に切り離されてしまうんじゃないかと。少なくとも、国家の行為であれば、不完全なものであれルールはあるわけです。国民がそれを決めて、チェックできる仕組みはある程度整っている。しかし、民営化されてしまうと、その活動をチェックすることすらもむずかしくなる。(P17)

〇もしかすると僕らが知っている近代国家の時代というのは、封建国家の時代と、グローバリゼーション下で国家主権が脅かされる時代とに挟まれた例外的な時代かもしれないとすら考えられるわけです。・・・あるときから無理して主権国家を維持していたけれども、もう一度封建的なものに回帰しているのかもしれない。(P53)

立憲主義と民主主義はもともとは別の原理です。ですからそこに矛盾も生まれます。権力行使が民主的な意思決定によってなされた場合でも、それは憲法によって制限されるべきなのか。もし憲法が主権者たる国民の意思をも制限するとしたら、それは民主主義とはいえないのではないか。このように民主主義と立憲主義とが齟齬をきたすことがあるわけです。(P85)

〇政府にはたしかに意思を決定するという役割がある。しかし、その決定を政府自身が実行に移そうとすれば、多大なコストと作業の不効率を招くことになる。多くの役割を担えば担うほど、政府はかえって弱体化する。だから、政府はむしろ意思決定だけに専念し、その実行を民間のアクターにゆだねることでこそ、強い政府であり続けることができる、と。ドラッカーは、国家を否定するのではなく、国家をもっと活力あるものにするためにこそ、国家の役割は限定されるべきだといっています。(P186)

〇構成的権力[=憲法制定権力]とは社会に内在するものとして維持されつつも、構成された権力[=立憲体制のもとでの法の運用]としての法が秩序を維持するということになる。そして各人の利益考慮を満足させている限りではその秩序は維持されるけれども、恣意的な運用などによって各人の不満が溜まれば、途端に構成的権力が発揮される、すなわち、自然権にもとづいた反抗が起こる、と。こんなふうに、統治される側とされる側の緊張関係を視野に収めているのがスピノザの政治論です(P243)