とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

建築から見た日本古代史

 最近もっぱら古代歴史づいている。それも大化の改新前後。「皇室がなくなる日」「キトラ・ボックス」、そして本書。「皇室がなくなる日」は法学的見地から、「キトラ・ボックス」は小説として、そして本書は建築学の分野から。とは言っても、必ずしも建築史として学問的に研究するのではなく、建築的知識をベースに古代史を推理していくといった趣旨。そして非常に面白い。

 推古天皇蘇我馬子の傀儡だった。聖徳太子もまた、蘇我馬子政権における外交大臣といった位置付けだった。蘇我家から大王家に権力を奪還しようした舒明天皇大海人皇子天武天皇)は実は中大兄皇子天智天皇)とは異父兄弟だったという仮説を置いて読み解く壬申の乱。そして天武天皇の正統化のための皇祖神信仰と、その上に築かれた持統天皇による天孫降臨、アマテラス神話。もちろんどこまでが真実かはわからないが、正解がないだけに想像を馳せるには魅力的だ。

 そして、伊勢神宮の構造に大陸文化の要素を見たり、四天王寺法隆寺の地政的な意味を考えたりと、建築的・都市的視点からの考察も興味深い。生前退位法案の特例法案が審議中だが、天皇制の起源を考察するのは面白い。武澤秀一の他の著作も読んでみようかな。

 

建築から見た日本古代史 (ちくま新書1247)

建築から見た日本古代史 (ちくま新書1247)

 

 

○国家的見地から四天王寺を見たとき、もっとも重要なポイントは、港をもつ難波に立地しているということです。そこは大陸に通じる海上ルートの始点であり、かつ終点。いわば外界に対する国家の“顔”であり、唯一の国際玄関口でした。・・・港のある難波が国家の顔であり、物や人、情報を取り入れる“口”だとしたら、都である飛鳥は国家の“心臓”でした。そこに馬子はいち早く飛鳥寺を建立した。そして斑鳩は、難波と飛鳥をむすぶ中間にあって屈曲部に位置する、いわば“ノドボトケ”。そこを馬子は外交の拠点と位置づけ、土地を分与したうえで開発を厩戸に委ねた。(P130)

○『古事記(ふることふみ)』の記述が舒明に代わる前、推古の代で終わっているのも象徴的です。何が象徴的なのかといえば、舒明前代の推古までが『古事記』編纂における「古事」だったということ。言い換えるなら、舒明から新時代がはじまったという認識だったのです。・・・百済大寺において、塔と金堂がヨコに並ぶという、あたらしい伽藍配置が生み出されました。これは大陸には全く見られないものです。しかも東アジア有数の規模をともなって。・・・それは政治力、経済力、技術力、組織力のみならず、美的感性も含めた知性、情報収集力、さらにはこれら全てを束ねる力量なくしては、とうてい達成できない事業でした。(P156)

○天智には<舒明-斉明>を両親にもつという、これ以上ないバックボーンがありましたが、天武にとっては母斉明の存在こそ、頼りにし得る最大のよすが、拠りどころだった。・・・“国母”的イメージを抱かせる「皇祖母尊」は、昔から伝わっている素朴な女性太陽神と重なるのではないか。それなら、女帝を母にもつ自分の即位は十分にあり得るのだ。・・・天武の正統化を盤石にするには、女神を皇祖神に立てることがきわめて有効でした。祖先神を女性とするこの方針は、鸕野皇后の立場も強化することになり、大いに望むところだったでしょう(あるいは鸕野の発案だったか)(P206)

伊勢神宮・・・入口は例外的に、妻面と直角をなす面にとっている(=平入り)。これは意外に思われるでしょうが、大陸伝来の伽藍建築の流儀なのでした。・・・もっとも日本的と思われがちな伊勢神宮ですが、そこには大陸からの影響が濃厚に反映されています。天皇律令国家の誕生に向かう天武・持統朝の文化的風潮は、排他的に日本一辺倒というよりは、意外かもしれませんが大陸文化を積極的に取り入れていたのです。(P356)

○697年、持統は孫の珂瑠を首尾よく皇太子とし、この年に譲位つまり「生前退位」をおこないます(文武天皇)。念願の天孫降臨を実現したのです。・・・これを達成するためにこそ、持統は自らを皇祖神に擬していた。自らをモデルとして皇祖神アマテラスを創造していたのです。・・・政治的意図の下に天孫降臨神話が創作され、政治と神話が綯い交ぜとなる。これにより天皇が現人神と権威づけられ、その天皇による後継指名が一般化します。これが「生前退位」定式化のはじまりでした。ここから「万世一系」の物語が現実と化してゆくのです。(P405)