とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

 村上春樹柴田元幸の対談を中心に、前半に村上春樹が翻訳した(ほとんど)全ての本についての翻訳者レビュー、対談の途中には村上春樹が初めて翻訳し雑誌に掲載された文章(ジャズエッセイ)を挟み、最後に都甲幸治氏の寄稿文が入る。二人の対談が面白い。

 私は小説も書かなければ、翻訳もしないが、ここで語られる翻訳の話はよく理解できるし、小説家にとっての翻訳と、翻訳家にとっての翻訳に対する姿勢や対峙方の違いなどがよくわかる。それにしても、忙しい時に、存在しない小説をでっち上げて、その書評を書いた、なんて武勇伝を披露しているけど、村上春樹って意外に豪胆なんですね。また、小説の文章は古びないけど、翻訳は必ず古びる、という話も興味深い。

 村上春樹の翻訳本はそれほど多く読んでいるわけではないけれど、「グレート・ギャッツビー」や「キャッチャー・イン・ザ・ライ」位は読んでおいた方がいいかな、と改めて思った。その程度の村上春樹翻訳本読者ですいません。

 

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

 

 

○この『ロング・グッドバイ』を翻訳する作業は、思わずにこにこしてしまうくらい本当に楽しかった。僕は作家として、チャンドラーの文章からたくさんのことを学んできたから、彼の文章を訳していると、なつかしい場所に帰ってきたみたいで、それがすごく嬉しかった。・・・そういう意味では、チャンドラーの文体は僕の原点でもある。そういう小説を自分の手で翻訳できるというのは、実に小説家(翻訳家)冥利につきるというか。(P64)

○[柴田]たとえば駒場の元同僚のフランス語専門の知人は、「柴田君、どうしてそんなに翻訳ばっかりするの?」と。「いや、翻訳したほうがよくわかるし、楽しいし」と言うと、「僕は原文で読んでわかっちゃうから、翻訳する必要ないんだよ」みたいなことを言うんですよね。僕はやっぱりまだ、いまだに英語が外国語で、日本語に訳して初めて、分かった気がするんですよね。(P100)

○僕は自分が小説家だからわかるんだけど、小説家は決して完璧じゃないんですよね、どう考えたって。だから、そこにある文章は、完璧な不動のテキストというわけではない、というのが僕の考え方です。だとしたら必要に応じて、ぜんたいのバランスを崩さない程度に、翻訳が原文と少しくらい違っていてもかまわないんじゃないかという考えは、心の隅の方にあります。・・・テキストを金科玉条みたいに細かいところまでごちごちに奉ることもないだろうと。(P106)

○たとえば、1961年に書かれた日本の小説で、今読み返してもほとんど古びていないというものは、もちろんあるわけですよね。それに比べて、翻訳の文章はどうしても古くなります。これは避けがたい現象ですね、不思議だけど。古びないオリジナルはいっぱいあるけれど、多かれ少なかれ古びない翻訳はない。(P129)

○そういえば、かなり昔のことですが、雑誌に書評を頼まれたとき、存在しない本の書評を書いたことがあります。まず本を読まなくちゃいけないじゃないですか、書評って。時間がなくてあまり本が読めないときとか・・・しょうがないから自分で勝手に本をつくってしまって、その書評を書いたりしました。出鱈目なあらすじを書いて。・・・/[柴田]衝撃的。/[村上]そんなの、みんなやってるかと思っていたけど。/[柴田]やってませんよ(笑)。