とんま天狗は雲の上

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21世紀の楕円幻想論

 第1章「生きるための負債」の冒頭に近い部分で、「負債論」(デヴィッド・グレーバー)からの引用として、「エスキモーの本」(ピーター・フロイヘン)の紹介がある。「猟に成功した狩人が肉を持ってきてくれたので礼を言ったら、憤然と抗議された」(P030)という話だ。イヌイットの世界では、分け与えることも受け取ることも義務であり、それこそが「全体給付システム」である。すべて貨幣換算して清算できると思うのは「等価交換モデル」であって、人間社会はそれだけで出来ているわけではない。しかし現代人はそのことをすっかり忘れてしまった。

 貨幣は非同期的な等価交換を媒体するツールであり、時間を節約するための道具に過ぎない。しかし、社会には時間をかけてうやむやにしていくことでしか解決の方法がない問題もある。そうした問題も逃げずに、引き受けること。それこそが自己責任であり、小商いだと言う。

 正直、わかりやすくない。話があっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、何が言いたいのか、何を言ったのか、よくわからなくなる。タイトルにある「楕円幻想」とは、終戦直後に花田清輝という作家が発表したエッセイの中の一節だそうだが、私はトンと知らなかった。楕円とはすなわち二つの焦点で描かれる図形だが、筆者は「等価交換モデル」と「贈与モデル」を二つの焦点として、「けっして『等価交換モデル』だけで社会が決まるわけではない。『贈与モデル』と二つが程よく調和する社会でなければならない」と主張する。

 気分としてはよくわかる。そして気分がわかればそれでいいのだと思う。金銭合理主義の限界を知り、貨幣に依らず、人間同士の信頼と互助の心で成り立つ社会。相見互いの互酬的社会の必要性を知り、そして両者が絶妙なバランスを取って調和すること。そんな社会を夢想する。たぶんそれは文章との相性が悪いのだろう。だからなかなか言葉で合理的に説明できない。でも確かに「ある」。だから気分としてはわかる。そんなことを伝えようとしているのだと思う。わかりにくいけど、でもわかったような気がする。

 

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学

 

 

○「誰もが、自分が大事と思っている」と、思っているかも知れませんが、このこと自体が、ホッブズ以来の資本主義的な社会が生みだした、人類史的にみれば比較的新しい、偏見なのかもしれないと、疑ってみる必要がある・・・わたしたちの遺伝子の中には、自分だけが生き残ろうとする遺伝子と、自分たちの種を存続させなければならないという遺伝子の両方が存在していて、あるときは利己的になり、あるときは利他的な行動になる(P049)

○現代の社会が要請しているのは、解決不能な問題に長い時間をかけるべきではないということです。お金は・・・問題を解決する道具なのではなく、単に、時間を節約するための道具に過ぎないのです。・・・金銭合理性とは、金銭が持つ時間節約機能を最大限発揮するということに他なりません。・・・金銭合理主義とは、時間を思考の外部へ追い出すことによってのみ成立する合理主義だということです。(P195)

○解決がつかない問題・・・を整理し、選択・・・するというやり方は、一見・・・合理的に見えるかもしれませんが、わたしはこうした態度は、問題からの逃避であると思うのです。・・・逡巡する時間を経たのちに、わたしたちがとるべき態度は、「やむを得ず、引き受ける」こと以外にはないように思います。・・・「自己責任」とは、解決不能の問題を、ちゃんと引き受けられるようになることではないかと思います。つまりは、自分に責任のないことを、自分の責任として引き受けるということです。

○退蔵によるお金の集中は、消費社会において、何ものも及ぶことのできない権力となりました。・・・貨幣は、政治も、教育も、モラルさえも、すべて、効率や生産性という貨幣的尺度によって計測することができるという超越性を持ったのです。・・・そうした貨幣の自己増殖力は、富の平等配分といったような計画性はありません。貨幣の自己増殖性こそが・・・富の一極集中をさらに亢進させるのです。(P222)

○等価交換モデルと贈与モデル・・・はほとんど同時に存在し、相互に、斥力と引力によって結び付けられており、一方が他方に反発していると同時に必要としているという関係にあったというべきかもしれません。・・・それは、別に、貨幣経済による繁栄を否定することでもないし、等価交換のモラルを転換することでもないのです。ただ、わたしたちの内部には、もう一つのモラルが存在していることを知ることであり、二つの焦点が程よい距離感で調和する社会をつくり出していくことなのです。(P244)