とんま天狗は雲の上

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日本史の内幕

 BSプレミアムの「英雄たちの選択」は最近欠かさず見ている。司会の磯田道史の本は初めて読んだが、何と、磯田氏は15歳から古文書を読んできた人だったのか。本書はそうして古文書を読む中で発見した歴史の内幕を綴った歴史エッセイ集。読売新聞他で連載した記事を収録している。

 古文書が主役なため、時代の対象は戦国時代以降がほとんど。秀吉が少年時代に浜松で武士をスタートさせたということも知らなかったが、秀頼は実は秀吉の子ではなかった可能性が高いといった秘話もあって面白い。日本は農民・庶民に至るまで、識字率が高く、知識レベルも高かった。ゆえに、非常に多くの古文書が残されており、古書店等でそれらが発見されては歴史の解明が進んでいくという歴史学研究の実態がよくわかる。なるほどこれはかなり楽しい知的な学問だ。

 教科書を暗記するのとは全く違って、日々、新しい発見に満ちている。歴史学の本来の楽しさと意味が見えてくる。古文書はまさに宝の宝庫だ。「内幕」というか「歴史の実相」が見えてくるようで面白い。歴史の中の人びとも我々と同じように日々を暮らしていたのだ。そんな生活に目を配れるところが磯田歴史学の特徴なのかもしれない。

 

 

○日本史の内幕を知りたい。そう思うなら、古文書を読むしかない。私は15歳で古文書の解読をはじめた。教科書のなかには、知りたいと思う歴史はなかった。歴史教科書は、政府や学者さんの願望にすぎない。「国民のみなさん、われわれの歴史はこんなものでした。このように思っていてください」と、彼らが信じていて欲しい歴史像が書いてあるだけである。歴史の用語をおぼえるにはいいが、歴史観が身に付くものではない。(ⅰ)

○問題は信長からの援軍の人数3000である。・・・これが怪しい。複数の史料に照らすと、どうみてもこれは過小な数字で織田の援軍はもっと多かった可能性が高い。・・・三方ヶ原の戦いは「神君」家康が大敗した合戦である。徳川の世になると、家康が十分な援軍をうけながら信玄に負けた事実が隠蔽されたのかもしれない。敵の武田軍は多く、味方の織田援軍は少なく書かれた可能性がある。・・・権力の都合で情報は操作される。ゆえに国家機密の保護は必ず後日の情報公開とセットでやらないと、検証が不可能になり、国を誤る。(P68)

○江戸期に編まれた家康伝記「大三川志」小牧長久手合戦出陣の条に「茂るとも羽柴は松の下木哉」という不思議な連歌の句が書き込まれている。・・・実は、秀吉は・・・16歳から18歳まで浜松の頭陀寺松下氏という山伏の豪族に仕えていた。・・・秀吉は松下から「公」をとって「木下」を名乗ったともいう。・・・浜松人はみすぼらしかった秀吉少年の姿を知っており、秀吉との戦いの出陣時、「秀吉は所詮、松下の元奉公人。松下や松平の下働きだ」と噂していた可能性だってある。(P111)

肥前名護屋のこの御殿で秀吉が淀殿を抱いていなければ、「豊臣秀頼は秀吉の子ではない」ことになるのだ。・・・私は、現時点で淀殿名護屋下向は疑わしいと思っている。・・・重要証拠はこの一点だけ。・・・豊臣家の内情を知らない茨城の武士が留守宅に・・・噂をききつけて書き送ったものだ。/豊臣家の内情を知悉している・・・太田は・・・同行したのが側室の京極殿であったと記している。・・・京極殿が来ても、地方大名の家臣だと淀殿が来たと噂することはありそうだ。(P118)

○神社仏閣が津波後に食糧難の状況でも比較的素早く再建されるのはなぜか。材料となる枯死した松や杉が大量に現地にあるからである。また、再建を始めたほうが、被災者も職と食にありつけたのである。/寺社の参道の杉並木は津波で3m水没すると、塩害でかなり枯れる。10m水没したら・・・すべて枯れる。(P229)