とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

すべての新聞は「偏って」いる

 メディアとの付き合い方、メディア・リテラシーの重要性と今後のメディアのあり方、ウェブ言論の将来性などを語る。ただし、あとがきでも書かれているように、一直線にメディア・リテラシーを語るのではなく、アンケートや新聞データベースの分析などにより、多くのデータを集め、データを中心に語っていく。それが、筆者にとっては納得感があるようだが、読者にとってはやや隔靴掻痒の感がある。

 第1部「新聞はいかにして『偏る』のか」では、主要5紙の偏りについてデータで示すが、イマサラ感がしないでもない。購読紙が世襲され、その結果、思想も世襲される可能性についての記述は面白い。第2部では「メディアと政治の距離」。安倍政権がこれまでの自民党政権に比べ、必ずしもメディアとの距離が頗る近いというわけではないことがデータで示されている点は興味深い。政治の世界のセクハラに関するアンケートはさもありなん。

 そして第3部「これからのメディア」では、軽減税率報道にみる新聞報道の偏り、書評ジャーナリズムの可能性などを綴る。そして最後の章「社会運動とメディア」では、ネット上で数秒間だけの行為の集合が世論を作り、社会運動となっていく可能性を語る。この部分は面白い。「これからのメディア」論についてはまだまだいろいろなことが考えられそうだ。

 本書は荻上氏が日頃の編集活動や評論活動などの中で感じたことを、データの裏付けを取りながらまとめていったものだ。メディアに関わりつつも少し引いた位置でメディアを分析していく視点は貴重であり、重要だ。これからもこうしたメディア論を期待したい。

 

すべての新聞は「偏って」いる  ホンネと数字のメディア論

すべての新聞は「偏って」いる ホンネと数字のメディア論

 

 

○国内では「連行時の強制性」のみこそが最重要論点であるかのよう・・・だが、それをそのまま海外で主張すると間違いなく「自爆外交」化してしまうので注意が必要だろう。/慰安婦問題について、歴史学者フェミニストなどは、「戦時性暴力」として普遍化し・・・ている。・・・そもそも、「慰安婦」という表現そのものが、もともと日本国内でのみ通用する「タテマエ」だったことを忘れると、この問題は理解できない。(P40)

○稲田は「道義国家」と何度も口にするが、そもそもそのような言葉は原文に存在しない。この言葉は実は、天皇の色合いを覆い隠すかのように改変された、戦後の「現代語訳」に登場する言葉である。おそらく稲田は、教育勅語の原文を読んでいないか、読んだが理解できていないかのどちらかだ。/こうした一連の出来事は、一部の人が口にする「愛国」が、あくまで「保守趣味」的なもの、あるいは「愛国ビジネス」的なものであること。そして、教育勅語などの記号に特定の反応を表明することで、選民意識と同調性を強めているにすぎないのではないかという疑念を抱く。(P47)

○他人(国民)はメディアの影響を受けやすい。だからそのメディアを自分好みにコントロールしたい。そんな欲求を、政治家は一般人よりも強く持っているとも言える。/そして、実際に権力を持った政治家は、その立場を使い、時に圧力をかけ、時にリークを行い、時に出力を絞ることで、メディアの影響力を「最適化」しようとこころみる。/報道機関および市民は、権力者に選別された情報の一方的な受け手であってはならない。調査報道などに基づいた積極的な検証や問題提起が、これからますます求められている。(P149)

○右でも左でも、他者の理性への冷笑は、時として情念的な扇動と結びつく・・・。/こうした点を考える際、ニコニコバイアスなどの可視化は、むしろ有意義でさえある。・・・ウェブサイト利用者などの傾向を俯瞰することで、「私たちが何をやっているのか」を自覚することができるためだ。データという地図を頼りに、脆弱な民主主義と向き合っていくこと。その作業は、まだまだ発展途上でもある。(P191)

○かつての運動が、活動家の献身的なコミットを求めたのに対し、ポスト社会運動は、人々の数秒ずつの行為を集積して巨大化する。・・・人々は、日常の中で数秒間だけ関心を持ち、「シェア」「コメント」などの「行為」を刹那的に行うことで、ひとつのタイムラインを形成していく。・・・意図や目的を共有する「集団」と異なり、「集合」はただのまとまりにすぎない。しかし、人々にフルのコミットを要求しないからこそ、集合は柔軟に、大きな力をもつことがある。(P238)