とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

組織の責任と個人の責任を分けて考える

 日本版司法取引の初適用事例として、海外での社員による賄賂行為に対して、法人の起訴を見送る代わりに、社員(元役員)3人を在宅起訴するという事案が公表された。これに関しては、「『日本版司法取引初適用事例』への“2つの違和感”~法人処罰をめぐる議論の契機となる可能性:郷原信郎が斬る」を始め、多方面から違和感と危惧の意見が出されている。

 法人と言えども、あくまで仮想の人格であって、法人としての行為を行うのは常に生身の人間である。ある違法行為に対して、それを行ったのが法人か個人かと言えば、法人でありかつ個人だから、それを分別し、法人の刑を見逃して、個人に全責任を被せるというのは、私も何となく違和感を持った。

 法人として行ったのであれば法人が責任を取るべきであって、個人の違法行為により法人が損害を被ったというのであれば、それはその法人と個人間で別に争えばいい。日本版司法取引も、当初は逆のパターン、個人の情報提供により、個人の罪を軽減し、法人の罪を問うケースを想定していたはずだ。私は法律の専門家ではないのでよくわからないが、組織の責任と個人の責任を天秤にかけて取引するということがそもそもあっていいことなのか、その是非からして違和感を覚えた。

 西日本豪雨にあたっては、愛媛県の野村ダムの放流問題が一部のメディアなどで取り上げられ問題視されているが、思ったほどには行政批判の声が大きくなってこない。逆に、避難情報が出されたのに避難しなかった、できなかったことに対して、自己責任を指摘する声さえ聞こえる。総じて、社会全体として、個人よりも組織を守る傾向が強くなっているような気がする。

 「あいつのせいだ」というのはわかりやすいけど、本当は、組織の責任と組織内の個人の責任、組織に対する批判と組織内個人に対する批判は分けなければいけないのではないか。先の司法取引の事例も、会社を守るために社員を差し出したと解釈できないこともないが、こうして個人の責任を追及し排除しても、そうした行動をしてしまう会社の体質というものがあったはずで、それをきちんと検証しなくては、結局、誤りはまた繰り返される。今回の災害対応についても、行政がどう動いたか、どう動くべきだったかは、きちんと評価・批判しつつ、行政内の個人への攻撃は慎む、という姿勢が必要なように思う。

 こうした傾向が生まれているのも、社会への不安が次第に大きくなっているからではないか。頼るべきものは身近な組織。それで同僚を排除してでも、身近な組織を守る。少し勢いのありそうな組織にはすり寄ることで身を守られると考える。しかしそれでは組織もどんどんやせ細っていくばかりだろう。本当は自立した個人とそうした個人が集まった強い組織、そして強い組織でつくられた社会こそが一番安全なはずだが、現状は自立できない付和雷同の個人と、そうした個人が集散したぶよぶよした組織となってしまってはいないか。それではしっかりした社会は作られず、社会不安が広がるばかりのような気がする。