とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

神様のいる街

 小さい本である。サイズも小さいが、文章の量も少ない。わずか数十分で読み終えてしまった。でも格別の余韻が残る。いつまでも読んでいたい。それでまた読む。

 中ほどに、「ホテル・トロール・メモ」というランダムに言葉が綴られた章が収められている。筆者が若い頃、神戸に通い詰めていた頃、神戸を舞台にしたふたつの小説を書いていて、その断片を、オリジナルの架空ホテルのメモパッドを作り、それに書き連ねていた。しばらくしてそのメモパッドに書きためたものを編集し、一冊の小冊子を作った。それはいつしか失われてしまったが、控えのノートが見つかり、それをもとに再現した。未完成のバラバラの言葉。だがそれらも小さくキラッと光っている。

 出版社の紹介文に「自伝的エッセイ」と書かれている。しかしそれはまるで小さな小説のようだ。神戸と神保町。「神」の字がついた二つの街の思い出と、妻との結婚に至る出来事。それらが吉田篤弘らしい、ふわふわと漂うような文体で綴られている。ちょっといい話。現在の自分は過去の自分に応援され、背中を押され、生きている。それはきっと誰も同じはず。

 

神様のいる街

神様のいる街

 

 

○幻を見る者はいつでも仲間が少なかった。いや、少ないどころか、実際には仲間など一人もいない。/それで、本ばかり読んでいた。本を読むよりほかなかったのだ。幻を見る人が書いた幻のような本に魅かれ、しかし、それはまったくもって幻の本で、手に入れることは叶わなかった。(P10)

○神戸にいると、僕は神様の声が聞こえるのだ。/(いいか、いまのうちに見ておけ)/神様は何度もそう云っていた。けしかけるような云い方だった。/思えば、子供のころから偶然や運命といったものに特別な思いを抱いてきた。偶然と運命は正反対の言葉のように思われるが、何かちょっとした偶然を見つけたとき、それがそのまま自分の運命だと受け取っていた。・・・あるとき、神戸駅の構内を歩いていて、駅名表示の文字の並びに、「神」の一字があることに気づいて、(そうか)と立ちすくんだ。(P15)

○いつか生に終わりが来るのなら、/死にもまた終わりが来るに違いない。/ただね、/生の終わりを多くの人は予期するけれど、/死の終わりは、「終わり」を予期する意識がそこにない。/だから、突然、空間の隙間からあらわれるように、/頁と頁のあいだからあらわれるように、/不意にあたらしい生が生まれてくる。/その始まりを見逃さないように―、/神様がそう言っている。(P78)

○女性が・・・「お似合いですね」と声をかけられるのはままあることだ。でも、「お洒落ですね」と声がかかるかどうかは判らない。「お洒落」というのは、どちらかと云うと、思いもよらないもの、ともすれば、その人の守備範囲から逸した「奇異なもの」が加味されたときに・・・感じるのではないか。・・・本来、ひとつに収まらないものが、ぎりぎりのバランスで共存しているさまを、「お洒落」の一言に託しているのではないか。(P87)

○この何年か、創作をつづけながら、何度も「誰か助けてくれ」と小さく叫んできた。しかし、自分の創作を他人が助けてくれるはずがない。しかし、膨大に残されたメモを読んでいたら、そこに過去の自分がまだ息づいていて、向こうからしてみれば、「未来の自分」である現在の自分に、「忘れるな」「こんなふうに考えた」「いいことを思いついたぞ」「いつかきっと書こう」「書いてみたい」「そのときが来たらね」―そう云っていた。/他人は助けてくれないけれど、過去の自分が、いまの自分に、「書くことは山ほどある」と小さく叫んでいた。(P123)