とんま天狗は雲の上

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京都で考えた

 文字どおり「京都で考えた」ことを綴ったエッセイ。と、短編小説が1編。京都という「街」で「考える」。でも、忘れる。だから「本」を書く。本を読む。『「本」と「街」と「考える」は頭の中でつながっている』(P48)と書いている。

 私も、まち歩きが好きだ。だから、「街」と「考える」がつながっているという感じはわかるような気がする。「本」はどうかな。でも「本」と「街」は同時には見ることはできない。「街」と「考える」がつながっているのではなく、「歩く」ことと「考える」ことがつながっているのではないかな。本書の中でも、『「街」を歩くことも、「考える」ことも、その根幹を成しているのは、どちらも前へ進むことである。』(P17)と書かれている。

 ところでどうして「京都」なんだろうか。たぶん筆者が東京育ちだから。京都はあくまで「旅先」だからだろう。井上章一「京都ぎらい」を読むまでもなく、京都生まれでなく、京都に暮らした者なら、「別に京都でなくても」と思う。だからたぶんこれは京都でなくてもいいのだ。たまたま筆者は京都へ旅するのが好きで、そして京都人はこうした旅行者を遇するのに長けているのかもしれない。付かず離れず、勝手に考えさせてくれるのではないか。そしてその結果が本書。しばしそのとりとめのない思考に付き合うのも悪くない。

 

京都で考えた

京都で考えた

 

 

○かねてより、ぼくは「街」というものと人間の「考える」という行為はひとつのものではないかと思ってきた。・・・「街」を歩くことも、「考える」ことも、その根幹を成しているのは、どちらも前へ進むことである。・・・このシンプルな事象は常に厄介な怪物を引き連れていて、「考える」ことのあらかたは、この怪物と対峙することから生まれてくる。/その怪物の名を、人は「時間」と呼んでいる―。(P15)

○本というのはこれすべて過去から届く誰かの声である。/しかし、書いている側からすると・・・本というのはこれすべて未来に向けて、未来の読者に声を届けるために欠いている。・・・それらは意識的に、あるいは無意識のまま、リレーのバトンを手渡す要領で引き継がれてきた。声の持ち主の多くはすでにもうこの世にいない。それでいいのである。それが本なのだから。(P29)

○本は忘れない、と先に書いたが、街もまたしかりである。/街もまたきっと忘れない。街は人が忘れてしまったものを記憶している。街を歩いてその細部に意識を働かせると、頭の中の奥深くにあるものと呼び合って記憶が少しずつ解凍されていく。・・・街には自分が見失ってしまった記憶が浸透しているからだ。・・・「本」と「街」と「考える」は頭の中でつながっているのである。(P48)

○人間の歴史はさまざまなものを省略してきた歴史である。省略することが進化であるかのように思い込んできた。/もし、本当にそうなら、この世のあらゆることについて、省略される前がどうであったかを知りたい。それがつまり「本当のこと」で、ようするにぼくは、いつでも「そもそも」探してきた。/そもそもの始まりはどうだったのか。われわれがいまこのように在るのは、そもそもどうしてなのか。/結論や結末ではなく、いつでも「そもそも」を知りたい。(P105)

○マルヤマはこの森の中に彼の理想とする世界のすべてが詰まっていると感じていました。すべてというのは「楽しいこと」と「悲しいこと」と「意味のわからないこと」と「意味のわかること」です。マルヤマの考える世界はその四つでつくられていて、彼はその四つを平等に好んでいるのです。(P113)